マルルーニ元首相の国葬に参列して

山野内在カナダ大使

日加協会の皆様、日加関係を応援して下さっている皆様、こんにちは。

4月になり、オタワも随分と春めいて来ました。しかし、世界で最も寒い首都の一つですから、まだまだ冬の復讐もあり得るかもしれません。 さて、今回の「オタワ便り」は、去る3月23日(土)に営まれた ブライアン・マルルーニ元首相の国葬について、所感を皆様と共有させて頂ければと思います。少々長くなりますが、お付き合い頂ければ、幸甚です。

国葬パンフレット

写真ご提供: 山野内駐カナダ大使

はじめに

国葬は、モントリオールのノートルダム大聖堂で午前11時から営まれました。それに先立ち、参列者は、予め集合場所と定められた中央バスターミナルに9時に参集し、臨時のシャトルバスで大聖堂に随時移動する段取りでした。

ノートルダム大聖堂

写真ご提供: 山野内駐カナダ大使

日本からは、岸田総理の特使として穂坂外務政務官が派遣されました。穂坂特使におかれては、3月22日(金)の夕刻、エアカナダ便にて東京を出発、トロント経由でモントリオールに来て頂きました。実は、相当な遅延で、宿舎に到着されたのは、23日午前4時頃という非常に過酷な日程でした。それにも関わらず、午前8時からの事前勉強会・打ち合わせでは、全く疲れを感じさせずに、万全の準備をして頂きました。国葬に際しては、トルドー首相フリーランド副首相ジョリー外相シャンパーニュ革新・科学・産業相 フォーブス下院議長ハーパー前首相クレティエン元首相らに弔意を伝達されました。

穂坂特使とトルドー首相

写真ご提供: 穂坂政務官ブログより

マルルーニ首相の思い出

私は、午前5時過ぎに起床し、オタワの公邸からモントリオールの穂坂特使が滞在されている宿舎へと向かいました。午前8時の事前勉強会・打ち合わせから、穂坂特使に合流させて頂きました。 オタワを出発した時には、曇り空にうっすらと朝焼けが見える感じでした。が、途中から雪になり、オンタリオ州からケベック州に入る頃には高速道路も積雪で真っ白です。天も涙しているのだと感じました。外の雪景色を眺めながら、マルルーニ元首相について想いを巡らせました。

全く私事で恐縮ですが、若き外交官として、極めて断片的ながらも初めてマルルーニ首相と仕事上の関わりを持ったのが、1991年5月のマルルーニ首相の訪日の頃でした。当時、私は外務省・北米2課の課長補佐で、海部総理との日加首脳会談の発言応答要領の経済部分について作成していました。また、この時の首脳会議の成果として発足した「日加フォーラム2000」も印象深いものがあります。このフォーラムは、21世紀を展望した日加関係のあり方につき包括的に検討し、両国首脳に提言を行う民間有識者のグループです。

また、当時は、日米貿易摩擦の真っ只中で、日米構造問題協議や米通商法スーパー301条の懸案に忙殺されていましたが、米加自由貿易協定についてもフォローしていたのを思い出します。そして、その当時は、米加自由貿易協定がメキシコを加えた北米自由貿易協定へと拡大していく時期でした。日本は、GATTを中核とする多角的自由貿易体制を重視し、個別のFTAについては懐疑的でした。そんな中、北米におけるFTAの動きには、1980年代以降の米国の保護主義的な動きに対処しようとするマルルーニ首相の強力なイニシアティブがあったと知りました。そんな記憶が甦って来ました。

リドレス合意

ブライアン・マルルーニ首相は、1984年9月から1993年6月まで2期9年にわたり進歩保守党政権を率いました。同首相の業績には刮目すべきものが多々あり、党派を超えて評価されていますが、日本人としては、何と言っても、リドレス合意です。太平洋戦争勃発後、カナダ市民であるにも関わらず、時の連邦政府は、日系カナダ人を強制的に収容キャンプに送致し、財産を没収しました。この非道な行為について、日系カナダ人コミュニティーは、連邦政府に対し、公式の謝罪と個人補償を求め、リドレス運動へと発展して行きます。交渉は難航します。概要は、次のとおりです。

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 〈終戦後〉 1947年、若い世代の日系移民2世らは、戦時中の1944年に設立されていた日系デモクラシー委員会を発展させて、全カナダ日系市民協会(NJCCA: National Japanese Canadian Citizens’s Association)を設立。戦時中の強制退去についての補償要求を開始。これに対し、カナダ政府は1950年に経済的損失の補償を行った。しかし、日系人側との交渉は無く、額は全く不十分。にも関わらず、終止符が打たれたことになってしまった。

 〈日系カナダ移民百周年〜リドレス運動〉 時は流れ、1977年。「日系カナダ人移住100年祭」が開催される。最初の日系カナダ移民、永野万蔵が来訪した1877年から100年の節目だ。実は、戦時中に強制退去・財産没収を受けていた日系カナダ人は多くを語らず、関連文書等の資料も公開されていなかったため、若い日系2世、3世は、実際に何が起こっていたのか詳しくは知らなかったのが実情だった。しかし、百周年を契機に、戦時中の実態が若い世代に伝えられ始める。これを契機に、改めて、カナダ政府に対し謝罪と補償を求める新たな運動、リドレス運動が始まる。1980年には、全カナダ日系市民協会(NJCCA)を全カナダ日系人協会(NAJC: National Association of Japanese Canadians)に改名し、この組織がリドレス運動の中核になる。しかし、時のピエール・トルドー政権は、謝罪ではなく、遺憾の意の表明には応じる意向を示すものの補償は拒絶。また、日系人の内部には、謝罪のみで良しとする立場から、謝罪と団体補償、更に個人補償まで求めるべきとの立場まで様々だった。運動は暗礁に乗り上げたかに見えた。しかし・・

〈マルルーニ政権の誕生〜交渉の始まり〉 1984年9月にブライアン・マルルーニ政権の誕生を期に、リドレス運動が大きく動き出す。しかも、日系カナダ人との和解は選挙公約の一つだった。 1984年12月には、カナダ側の首席交渉官となるジャック・マータ多文化主義担当大臣が日系人側の首席交渉者アート・ミキ全カナダ日系人協会会長の地元マニトバ州ウィニペグを訪れて、初顔合わせ。翌85年1月から正式な直接交渉が始まる。日系人側の交渉団長、日系3世のアート・ミキ氏 は、1936年9月生まれで、長年教師を務め、日系コミュニティーの指導者となった人物。対するカナダ側は、交渉団長となる多文化主義担当大臣が政治任命で毎年代わり、交渉は難航を極めることになる。 日系人側の基本戦略は、戦時中の不正義に対する認知・謝罪と失った財産の補償を一括して扱うというもの。但し、日系人の中では、謝罪と補償をめぐり様々な意見があり、団長のアート・ミキ氏は、日系人をまとめるのに大変苦労したと後年語っている。

〈補償額の算定〉 1986年1月、カナダ側2人目の交渉団長、多文化担当ジェリネク大臣は、戦時中の不正義を認め、謝罪を申し出る。しかし、補償については、客観的事実に基づく損失額が不明といった理由で全く進展しなかった。 そこで、日系人側は、損失額算出のための調査を幾つかの会計事務所に依頼。だが、調査費用の相場が15万ドルのところ、日系人側が何とか用意出来たのが3万ドルだった。調査依頼は軒並み断られていた。補償額が算定出来なければ、これ以上、交渉も進みようがない状況に追い込まれた。そんな時、大手会計事務所プライス・ウォーターハウス会計事務所が調査を引き受ける。実は、同会計事務所の先代の社長は、日系人に対するカナダ政府の措置は到底正当化出来るものではないと考えていて、その強い思いを引き継いだ現社長が相当な柔軟性を発揮して経費問題を処理。損失額の本格的な調査を開始。86年5月に、総額4億3,300万ドルと算出。この額は、根拠となる資料等が残っている財産に対するものだけで、実際の損失額はもっと大きかったはずとの意見もあったが、この後の交渉は、この調査結果をベースに進む。また、損害額が具体的に示されたことで、各種メディアがリドレス運動について好意的な論陣を張り始めた。

〈交渉決裂か〉 1986年7月、カナダ政府代表は、既に3人目の多文化担当クロンビー大臣に代わる。アート・ミキ氏は1万4,000人の生存者に1人2万5,000ドルの個人補償、日系コミュニティーに5,000万ドル、計4億ドルを要求。クロンビー大臣との歩み寄りを目指し、粘り強く交渉する。が、カナダ側は、コミュニティー補償に関しては1,200万ドルの基金を提案するものの、個人補償は依然として拒絶。

87年7月の交渉では、政府側は、コミュニティー補償の1,200万ドルが最終案だとして妥結するか決裂するかを迫る。日系人側は、個人補償無しでは飲めないとして、これを拒否。事実上、交渉は決裂。この後は、没交渉となった。

ここで、日系人側は、新たな交渉戦略として、先住民やユダヤ系など幅広く他のエスニック団体にも、リドレス運動への支持を働きかける。リドレスは、日系人だけの問題ではなく、カナダという国家の正義の問題である、と。

〈リドレス最終合意、そして署名〉 転機は、交渉4年目の88年に訪れる。マルルーニ首相は秋に総選挙を控える中、支持率が低迷し、起死回生策が必要だった。

一方、日系カナダ人のリドレス運動は、この頃には、日系人だけの問題ではなく、市民権と正義に関わるカナダ人全体の問題だと捉えられ、先住民や他のエスニック・グループ等61団体が支援するまでになる。マルルーニ首相は、84年選挙の公約だったリドレスが没交渉に至った状況を直視。88年3月、今こそリドレスを動かす時と考え、4人目の多文化担当ウィナー大臣を任命し、本気で合意に向けて交渉を加速するよう指示する。

88年4月14日(木)、オタワの連邦議事堂前広場で行われたリドレス運動支援行進には、多数の団体が参加し、リドレス運動は日系カナダ人を超えてカナダの正義の問題であると強く印象づけた。更に、8月10日には、米国で、個人補償を含む日系アメリカ人のリドレス合意法案にレーガン大統領が署名。ここから、一気に交渉が動き始める。一方、カナダ軍元兵士の間では、太平洋戦争最初期に香港戦での捕虜で辛酸を舐めた経験もあり、リドレスへの反対論も強力だった。しかも、彼らには、隠然たる政治力がある。政府側は、元兵士への年金増額を約束し、反対論を封じる。

そして、8月27日、遂に公式謝罪と補償の双方で合意。個人補償は1人、2万1,000ドル。全体補償は、日系コミュニティーに対する1,200万ドル、不当な扱いを被った人の記憶を留める基金1,200万ドル、人種の調和と異文化理解の基金1,200万ドル。総額3億600万ドルで、日系人側が要求した4億ドルの75%を勝ち取った。

9月22日、オタワの連邦議会議事堂において、マルルーニ首相は、公式に日系人カナダ人に対する不正義に謝罪。そして、アート・ミキ全カナダ日系人協会会長と共にリドレス合意に署名。1988年9月22日は、日系カナダ人のみならず、カナダにとって歴史に残る日となる。

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アート・ミキ氏とマルルー二首相

写真ご提供: 日系ナショナル博物館

そして、昨2023年12月に、私はアート・ミキ氏にお目にかかる機会がありました。ちょうど、リドレス運動に関する詳細を綴った書籍「GAMAN/Perseverance」を出版された時期でした。ミキ氏は、与党進歩保守党の指導部に反対論・慎重論が強い中、徹底的に情報管理していたかを含め、当時の状況を極めてリアルに語ってくれました。針の穴に象を通すような難しい合意だったが、マルルーニ首相だったからこそ実現出来たと深い敬意を表されながら仰っていたのが極めて印象的でした。加えて、リドレス合意は、先住民とカナダとの和解に向けて非常に重要なモデルを提示しているとも伺いました。

ミキ氏の話をお伺いして、マルルーニ元首相を是非とも表敬訪問したいと思うに至りました。その旨の連絡を取らせて頂きました。が、御家族からは、健康上の理由で今は難しく、回復した後に機会を見つけたい旨の返事が参りました。また、ご丁寧にクリスマス・カードも頂戴しました・・・

3月23日のモントリオールでの国葬に先立って、19日には、オタワで「お別れの会」が連邦議会正面のジョン・A・マクドナルド卿会館で開催されました。そこで、私も参列し、御家族に弔意を述べる機会があり、日系カナダ人コミュニティーと連邦政府のリドレス合意について心からの敬意を表したいと述べたところ、ミラ夫人は、毅然とした中にも優しい表情で、「故人は、それが正しい事であると確信して、合意に尽力しました。貴大使のお言葉に感謝したい」と述べられました。

2023年マルルー二元首相からのクリスマスカード

写真ご提供: 山野内駐カナダ大使

ブライアン・マルルーニの人生

ここで、マルルーニ元首相の人生を振り返ってみます。一編の大河ドラマです。 1939年3月、マーティン・ブライアン・マルルーニは、セントローレンス河口のケベック州コート・ノール地域の辺境ベイ・コモーのアイルランド移民のカトリック信者の家庭に誕生します。地元には英語の高校が無かったため、ニュー・ブランズウィック州チャタムのローマ・カトリック系の寄宿高校に進学しますが、決して裕福な家庭ではなく、製紙工場で働く父親が残業して教育費を賄っていたといいます。

成績は極めて優秀で、1955年、16歳にして、ノヴァスコシア州北部のアンティゴニシュ郡の公立のリベラルアーツ・スクールのセント・フランシスコ・ザビエル大学に入学。この頃、学内の進歩保守党の政治活動に関わり始めます。弁論部に入り、大学対抗の弁論大会では連戦連勝だったそうです。 また、1956年には、オタワで開催された全国ヤングリーダーズ大会にノヴァスコシア州代表として参加し、後に首相となるジョン・ディーフェンベイカーとの知己を得ます。政治学を修め、セント・フランシスコ・ザビエル大を卒業すると、同じノヴァスコシア州のハリファックスにあるダルハウジー大学ロースクールに進学します。が、マルルーニ青年は、学業そっちのけで、ノヴァスコシア州首相選挙で進歩保守党の現職、ロバート・スタンフィールド州首相の再選キャンペーンに没頭。健康も害し、単位を落とし、1年で中退。1960年に、改めて、ケベック州の名門ラバル大学法学部に入ります。1964年にラバル大卒業後は、モントリオールに移り、当時はコモンウェルス諸国で最大のハワード・ケイト・オグリビー法律事務所に入ります。以後、1976年まで労働法を専門とする弁護士として活躍します。

1976年、マルルーニ弁護士は、非議員ながら進歩保守党の党首選に出馬します。時代は、自由党ピエール・トルドー首相が隆盛を極め、進歩保守党が劣勢の時代です。37歳のマルルーニの大きな野心と賭けでしたが、ジョー・クラークに僅差で負け、惜しくも2位に甘んじます。その後は、USスチール傘下のカナダ鉄鉱石会社の副社長として、活躍。会社の業績を上げると同時に、産業界のみならず政界への人脈も強化していきます。

因みに、ジョー・クラークは1979年5月の総選挙でピエール・トルドー率いる自由党を破り、16年ぶりに進歩保守党政権を率いることになります。しかし、少数与党で安定せず、12月には予算案を否決されます。翌80年3月解散総選挙に追い込まれ、トルドー自由党が政権に返り咲きます。

そんな政治状況で、1983年の進歩保守党党首選が行われます。再び、クラーク対マルルーニの構図となりますが、今回はマルルーニが勝利し、進歩保守党の党首に就任します。学生時代から政治活動に関わり、演説の才があり、成功した弁護士にして、カナダの代表的な企業で経営手腕を発揮したマルルーニでした。が、自らの選挙で議席を得るのは、党首就任後の補欠選挙でした。政治手腕は未知数と不安視する向きも少なくなかったそうです。

そして、1984年9月、総選挙では、111議席増の211議席を獲得する大勝利へと導きます。45歳でカナダ首相に就任し、2期9年間、政権を率います。時代は、冷戦の最終局面であり、世界経済には保護主義の波が襲い、環境問題が顕在化して来ました。政権運営は実に難しい舵取りが求められました

そんな中で、上述のとおり、マルルーニ首相は、日系カナダ人コミュニティーとの間でリドレス合意を達成します。同時に、御子息をタカハシ道場に通わせていました。日本文化の真髄の一つとも言える武道を学ばさせたという事実は、マルルーニ首相の日本文化への敬意の現れだと思います。

北米自由貿易協定と反アパルトヘイト

1989年1月1日に発効する米加自由貿易協定は、マルルーニ首相の先見の明と政治的な実行力の賜物です。米加自由貿易協定は、カナダ側から提案し、1985年3月のレーガン大統領とマルルーニ首相の米加首脳会談(両首脳ともアイルランド系だったのでアイルランドの国花にちなんで、シャムロック会議と俗称されていた)で交渉入りしました。交渉自体も米国相手に困難を極めたといいます。その上、カナダ国内には、巨大な米国経済に飲み込まれてしまいかねないとの懸念も根強かった訳ですが、成立させ、現在のカナダ経済の基礎を築いたと評されています。国葬の際のジャスティン・トルドー首相の弔辞の中でも、マルルーニ元首相の優れたリーダーシップがもたらした偉大なる業績と称賛していました。

もう一つ、マルルーニ首相の忘れがたい業績として指摘されているのが、南アフリカのアパルトヘイトを廃止させるための、対南ア経済制裁を主導したことです。実は、冷戦下で、南ア制裁に踏み切ることに、レーガン米大統領もサッチャー英首相も反対していました。レーガン大統領は、ネルソン・マンデラは共産主義者だとすら断じていました。そんな中、1985年の国連総会で、マルルーニ首相は南ア制裁を主張。翌86年8月のロンドンでのコモンウェルス諸国会合で、宗主国英国の意向に真っ向から反対し、11項目の南ア制裁を実行しています。マルルーニ首相の揺るがぬ信念は特筆に値します。1990年2月11日のマンデラ氏釈放の翌日には、電話会談でマルルーニ首相に謝意を表しています。また、同年6月18日、カナダ議会でマンデラ氏は演説しますが、これが釈放後初めての外国での演説でした。ミドル・パワーのカナダが国際社会の流れをつくった誇るべき業績です

同時代の評価と歴史的な評価の境界

政治であれ、芸術であれ、学術であれ、何事によらず、同時代の評価と歴史的な評価の間には厳然たる違いがあります。モーツァルトやゴッホ、小村寿太郎と松岡洋右などの例が思い出されます。

マルルーニ首相についても、同様です。1993年6月に首相の座から退いた時の支持率は僅か17%でした。後任は同じ進歩保守党のキム・キャンベル首相でカナダ史上初の女性首相でしたが、就任3ヶ月後に総選挙に臨みます。進歩保守党は、議席を156から2へと減らす壊滅的、歴史的敗北です。同時代のマルルーニ首相への評価は大変に厳しかった訳です

しかし、30余年の時を経て、今やカナダ国民は、党派を超えて、マルルーニ首相をカナダの歴史上最も偉大な首相の一人だと評しています。時代の先を見て、同時代には不人気な政策であっても、信念を持って取り組む真のリーダーシップを体現した人物という訳です。

マルルー二元首相の棺

写真ご提供: 山野内駐カナダ大使

国葬

マルルーニ元首相の国葬は、2000年10月3日に行われたピエール・トルドー元首相の国葬以来、24年ぶりです。当日は、早朝からCBCニュースが特別番組を組み、ノートルダム大聖堂から生中継です。棺の到着から、カトリック教会の手順に沿ってルパイン大司教が采配する厳粛な式典の模様がつぶさに放送されました。名門モントリオール交響楽団の若きカリスマ指揮者ラファエル・パヤーレ率いる選抜メンバーによるモーツァルト「レクイエム」や「アヴェ・ヴェルム」等の演奏も感動的でした。

穂坂特使は、祭壇から5列目の席次でした。私も、恐縮ながら、特使の横に座らせて頂きました。威厳に満ち、かつ故人への敬愛に溢れた式典でした。首相の業績のみならず、人間味溢れる人柄も偲ばれました。親交の厚かった元ホッケー選手の語るエピソード、レーガン政権の国務長官だったジェームス・ベイカー氏のメッセージは琴線に触れました。

胸を突かれたのは、孫娘エリザベスさんが、「お爺さん(マルルーニ元首相)が1番好きだった歌です」と一言述べて、エディット・ピアフの名曲「私に何があるの」を涙を浮かべながら歌い切った時でした。深い家族愛を感じました。そして、次の曲がビング・クロスビーの名唱でも知られる「When Irish Eyes Are Smiling」でした。孫娘の歌った後に、聞こえて来た深いバリトンは、生前のマルルーニ元首相の歌声です。アイルランド人の楽観的にして温かな性格が凝縮されていました。スコット・プラス氏のピアノ伴奏は大らかで、マルルーニ元首相を包み込み、今、そこで歌っているように感じるほどでした。

カナダ国民が誇る大政治家の国葬。

筆舌に尽くし難い感銘を受けました。

 享年84歳。御冥福を祈念します。

(了)

文中のリンクは日加協会においてはったものです。

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