山野内在カナダ大使

日加協会の皆様、カナダ・ファンの皆様、日加関係の発展を応援して下さっている皆様こんにちは。

10月の声を聞くと、オタワは一気に秋の様相を呈しています。朝夕は気温もぐっと下がります。紅葉はとても美しいですが、既に落葉が始まっています。夏の間は道路沿いからは見えなかったオタワ川が、葉が落ちたことで見えるようになりました。いよいよ冬も遠からずです。

紅葉と落ち葉

写真ご提供:山野内駐カナダ大使

はじめに

今回の「オタワ便り」は、9月19日に日本大使館が加日議員連盟と共催した、日加外交関係樹立95周年・自衛隊記念レセプションについてです。アンソニー・ロタ下院議長(当時)ローレンス・マッコーリー農業大臣ジョナサン・ウィルキンソン天然資源大臣ヤアラ・サックス依存症・メンタルヘルス担当大臣マーク・サトクリフ・オタワ市長ら約500人の来賓にお越し頂きました。会場は、ウェリントン通りを挟んでカナダ議会議事堂の正面に位置するサー・ジョン・マクドナルド会館の大ホールです。初代首相の名前を冠するこの会館建物は、オタワでも最も格式のある建物のひとつです。

主賓スピーチ アンソニー・ロタ下院議長(当時)

写真ご提供: 在カナダ日本大使館

マクドナルド会館の関係者からは、年間を通して様々なイベントに利用されているが、今回の日本大使館のレセプションは、規模と内容の双方で格別であった旨のコメントも頂いています。「いけばなインターナショナル」のアン・ブロー会長にはフラワー・アレンジメントで会場を彩っていただきました。公邸料理人の嶋泰宏シェフは、何と、1500貫の寿司を握ってくれました。日本文化も効果的に紹介出来たと思います。

今回のレセプションの趣旨ですが、その標題が示すとおり、2つの視点があります。一つは、日加外交関係樹立95周年です。人生百年の時代ですから、95年は決して長い訳ではありません。が、国と国の歴史ですから、語るべき事が数多あります。そして、このレセプションは、オタワで開催される史上初めての自衛隊記念レセプションでもありました。ここに至る歩みは意義深いものがあります。以下、敷衍したいと思います。

創世記

まず、日加関係を概観します。記録に残る日本とカナダの最初の出会いは、190年前の1833年、紀州の漁師3兄弟(音吉、留吉、久吉)が嵐で漂流し今のブリティッシュ・コロンビア州に漂着した事に遡ります。当時のカナダは未だ英国北米植民地でしたが。1867年、英国自治領としてのカナダが建国されます。1873年には、史上初めてカナダ人が日本を訪れます。メソジスト教会の2人の宣教師コクランドとマクドナルドです。この2人は後の麻布高校と東洋英和女学院の母体となる私立学校を設立します。

初の日本人移民、永野萬三が英国船でバンクーバーに来るのが1877年。その10年後の1887年には横浜バンクーバー間の定期航路が就航。日本人移民が増加します。そして、カナダにおける日本最初の領事館がバンクーバーに開設されたのが1889年です。日本とカナダの関係は深まって行きます。

そして、1928(昭和3)年1月に、田中義一総理マッケンジー・キング首相の間で、日加間の正式な外交関係樹立について合意が成ります。この合意を受けて、同年7月に日本政府がオタワに公使館を開設します。この関連で、強調したい事があります。1928年の段階では、カナダは未だ英国の自治領で、名実ともに主権国家となるのは1931年のウエストミンスター憲章まで待たねばなりません。日加外交関係樹立はウエストミンスター憲章に先立つこと3年です。この段階で、カナダが外交関係を樹立していた国は、米、仏、日の3カ国だけです。当時の日本大使館は、ウェリントン通りに所在し、カナダ議会議事堂の前の一等地にありました。初代特命全権公使は徳川家正、15代将軍慶喜の孫です。昭和初期の日本の熱量を感じます。

当時の日本大使館

写真ご提供: 在カナダ日本大使館

95年の歩み

現在の極めて良好な日加関係は、決して当然視すべきではなく、先達の大変な努力によって発展して来たものです。95年前の外交関係樹立から今日に至るまでの間で、困難で苦痛に満ちた時代もありました。第2次世界大戦では敵同士でした。戦時中の日系カナダ人の財産没収・強制収容は、決して繰り返してはならない重大な過ちでした。多くの日系カナダ人の方々が国家的欺瞞に翻弄されました。戦後、日系カナダ人が立ち上がり、戦時中の不正義に対する謝罪と補償を求めるリドレス運動が始まりました。1988年9月22日、マルルーニ首相と日系カナダ人協会アート・ミキ会長の間で、リドレス合意署名に至ります。日系カナダ人に対する不当な行為を総括して過去に区切りをつけた訳です。

実は、この1988年は、前回の「オタワ便り」でも書きましたが、カナダがJETプログラムに参加した年でもあります。リドレス合意と同じ年に、未来を見据えたJETが始まったのは本当に象徴的だと思います。

その1988年から今年で35年。今日、日本とカナダは、民主主義、自由、法の支配、人権、市場経済等の基本的価値を共有。共にG7メンバーです。米国が抜けた TPPを共に立て直し、今や英国をメンバーに加えました。日加の協力が無ければ実現していなかったでしょう。経済関係は、伝統的な農産品、石油・ガス、自動車から最近では重要鉱物資源や量子・AI等の分野で一層緊密になっています。日加間の閣僚の往来も頻繁です。

現在の国際社会は2つの深刻な挑戦に晒されています。一つは地政学的挑戦です。ロシアによる違法なウクライナ侵略等の力による一方的な現状変更の試みが横行しています。法の支配に立脚した国際秩序の維持・強化に取り組まねばなりません。もう一つは、山火事や異常気象の常態化等の地球温暖化です。これは人類の生存を左右する問題です。日本とカナダは、この両面で必要不可欠なパートナーです。昨年11月、日加両国は「自由で開かれたインド太平洋に資するアクション・プラン」を発表しました。情報保護協定の交渉・締結から環境エネルギーの協力まで、6分野にわたり日加協力の具体的項目が列挙されていて、現在、日加両国は精力的に取り組んでいます。そんな中、現下の厳しい地政学的現実を反映して、日加間の防衛面での協力が進展しています。

日加防衛協力

 改めて、防衛分野での日加関係を振り返ると、第1次世界大戦にまで遡ります。当時のカナダは大英帝国の自治領でしたが、日本とカナダは同じ連合国側でした。現在のカナダ海軍の太平洋側の拠点、エスカイモルト基地には、日本の帝国海軍艦艇が寄港し、カナダ海軍の前身である英国海軍・太平洋艦隊と共同で対処していました。

その後、上述のとおり、オタワに日本公使館が開設され、日加関係が発展するに従い、公使館の陣容も拡充して行きます。1931年8月には初の公使館附武官として、後に硫黄島戦で有名になる栗林忠道陸軍少佐が着任しています。

1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、日加間も戦争状態となります。最終段階の1945年8月9〜10日には宮城県の女川港で激しい戦闘が行われ、女川守備隊148名とカナダ人パイロット、ハンプトン・グレイ大尉が犠牲になりました。この件については、改めて書かせて頂きたいと思います

1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約を経て、戦後の新しい日加関係が始まります。日本の戦後復興が加速し、高度経済成長を遂げ、国際社会の責任あるメンバーとして日本の役割は大きくなります。が、日加間の防衛面での協力は極めて限定的でした

そして、2009年、オタワの日本大使館に防衛駐在官が発令されます。但し、この段階では在米日本大使館の防駐官がカナダも管轄し、必要に応じてカナダに出張するという実態でした。それでも、この頃から日加間の防衛面での協力は深化して行きます。カナダは、米国の同盟国でNATOメンバー、ファイブアイズの一角を占めています。国連PKOの生みの親、レスター・ピアソン の母国でもあります。北朝鮮、ロシア、中国を巡り、アジア太平洋地域情勢は緊迫の度を高めて行きます

そして、歴史的に大西洋・欧州との関係が深かったカナダがアジア太平洋への関与を高めていきます。自衛隊の統合幕僚長のカナダ訪問、カナダ軍のエア参謀総長の訪日等、制服トップ間の対話も充実して来ています。日加が共同で行う訓練は、近年、実施地域や参加国を拡大しつつ、頻度を増大させており、戦術技量の向上や連携の強化の観点から内容面でも深化しています。更に、北朝鮮の「瀬取り」対処での協力、日加次官級「2+2」を始めとする各種政策対話、日加物品役務相互提供協定(ACSA)の発効、北極域でのカナダ軍演習「ナヌーク作戦」へのオブザーバー参加等々、防衛面での協力が進展しています。そんな中、2022年12月には、戦後、初めての防衛駐在官として落合貴史2等空佐がオタワの日本大使館に着任しました。

従って、日加外交関係樹立95周年レセプションは、日加間の防衛面での協力の進展、初の防衛駐在官の着任を歴史的文脈に位置付けて、日加関係の一層の発展に思いを致す絶好の機会です。

自衛隊中央音楽隊+カナダ中央軍楽隊

史上初の自衛隊記念レセプションで、多くの国防関係者、各国武官が来てくれました。ブレア国防大臣エア参謀総長は海外出張中でしたので、アレン副参謀長から来賓として素晴らしいご挨拶を頂きました。

レセプションの招待客

写真ご提供: 在カナダ日本大使館

そして、史上初に相応しいレセプションにしたいと思い、館員で頭を絞りました。レセプションでは、両国の国歌を筆頭に日本とカナダの代表的な音楽、更には、招待客の懇談の際のバック・グラウンド・ミュージックが不可欠です。そして、自衛隊にもカナダ軍にも最高水準の音楽隊があります。よって、日加両国の音楽隊が共演すれば、日加の防衛面での協力の素晴らしい象徴となると考えました。実は、アイデアを形にするのは、何事につけ、容易ではありません。日程調整、予算措置、人員の選抜等々、両国内で難しい手続きを経て、何とか日加音楽隊の共演が実現する運びとなりました。

日加音楽隊 管楽五重奏団の共演

写真ご提供: 在カナダ日本大使館

自衛隊には各方面に音楽隊がありますが、オタワでの史上初の自衛隊レセプションを祝すために何枚もCDをリリースしている自衛隊最高の中央音楽隊から出張者を出して頂きました。山下顕3等陸佐・演奏班長、フルートの我妻日和陸曹長、ファゴットの田中麗子3等陸曹、そして内局から広報担当の福田壮一専門官です。カナダ側は、オタワを拠点とするカナダ軍中央軍楽隊から、ホルンのパトリック・M・カウター伍長、オーボエのマラット・ムリコヴ伍長、クラリネットのマイク・ダッソン伍長に参加頂きました。

楽曲を決め、楽譜を交換して、事前に個々のパートは練習して頂きました。その上で、自衛隊チームは、9月16日(土)夜にオタワ到着。17日(日)と18日(月)の2日間、オタワ空港近くのカナダ軍楽隊のスタジオでの共同リハーサルに臨みます。月曜日のリハーサルを短時間でしたが、見学させて頂きました。臨時編成の管楽五重奏団とは思えぬ、見事なハーモニーに感激しました。

合同リハーサル

写真ご提供: 在カナダ日本大使館

そして、9月19日(火)午後6時過ぎには招待客で会場が一杯になります。挨拶のラインには未だ長い行列がありましたが、6時30分、司会者がレセプションの開会を告げます。自衛隊とカナダ軍の管楽五重奏団が「オー・カナダ」と「君が代」を奏でると、満座の招待客から大歓声です。

そして、レセプションの後半では、この夜のために特別に編曲されたカナダと日本の代表曲が演奏されました。スタン・ロジャーズ作曲の「Barrett’s Privateers」と「さくらさくら等メドレー」です。締めの「スーパー・マリオ・ブラザーズ」は、自衛隊音楽隊お手製のマリオ・ブラザーズの帽子をそれぞれの楽員が被って演奏しました。会場が暖かい興奮に包まれました。圧巻でした。アンコールは、ビートルズの「レット・イット・ビー」で、私も参加しました。鍵盤を弾きながら、日加の友情を実感した瞬間でした

結語

実は、このレセプションと全く同じ時間帯で、議会では加印関係に関する特別委員会が開催されていました。レセプション出席を予定していた外務大臣政務官、議員、政府高官が委員会出席のために、来て頂けなかったのは残念でした。それでも多数の来客を得て、日加関係の深化を示す絶好の機会になったと思います。

この機会を捉えて、オタワで発行されている議会・政治専門誌であるヒル・タイムズ紙に、日加外交関係樹立95周年について寄稿しました。お時間のある時に目を通して頂ければと思います。

更に、このレセプションの翌日、西村経済産業大臣がオタワを訪問されました。10年ぶりの経済産業大臣のカナダ訪問です。地球温暖化への対応としての2050年ネット・ゼロに向けたグリーン・エコノミーへの移行を念頭においたバッテリー・サプライ・チェーン及び両国の産業科学技術分野の協力促進に係わる日加間の覚書も署名されました。ビジネス面でも日加関係が進展している事を象徴するものでした。

西村経産大臣カナダ訪問

写真ご提供: かなだ国際通商省

最近の日加間のビジネスの深化については、改めて報告したいと思います

それでは、皆様の秋が実り多きものとなりますよう祈念しております。

(了)