Column: オタワ便り NO.21 (2024年1月)
ハンプトン・グレー大尉と宮城県女川町
山野内在カナダ大使
日加協会の皆様、カナダファンの皆様、日加関係の発展を応援して下さっている皆様、
新年、明けましておめでとうございます。
はじめに
国際情勢は、ウクライナ、中東はじめ多難、地球温暖化は待ったなしという状況です。 そんな中、2023年は、日本がG7議長国を勤め、広島サミットを筆頭に外相、財務相等の15のG7閣僚会合を開催。G7が結束し、地域情勢、経済安全保障、核軍縮・不拡散、環境・エネルギー・食料、国際保健、IA等の国際社会が直面する課題に指針を示しました。
日加関係は、外交関係樹立95周年の節目の年で、政治・安全保障からビジネス、更には文化面まで進展しています。日加両国は「自由で開かれたインド太平洋に資する日加アクション・プラン」を着順に実施しています。国連憲章に基づく北朝鮮の「瀬取り」監視や共同演習のために、カナダ海軍がフリゲート艦3隻等を派遣。米国に次ぐアセットの規模です。また、マリー・イン国際経済大臣とローレンス・マコーリー農業大臣は、カナダ企業150社余から250人のビジネス関係者からなる代表団“チーム・カナダ”を率いて来日されました。日加関係史上の最大規模です。今後のビジネスに繋がっていくことが期待されます。そして、本年1月12、13日には上川外務大臣もカナダを訪問され、非常に充実した日加外相会談も行われたところです。
一方、今日の極めて良好な日加関係は、様々な方々の信念と情熱の上に築かれていると実感します。第1次世界大戦では、日英同盟の関係で、日本と大英帝国自治領カナダは、共に戦いましたが、第2次世界大戦では、敵でした。しかし、日加両国は過去を克服し、戦後、日加関係は著しい発展を遂げ、今や「新しい章」へと進化しつつあります。 そこで実感することがあります。国と国の関係は、幅広く、複雑で、見たくない現実もあるかもしれませんが、究極は人と人の関係だということです。人々の善意が、国と国の友情を深めていくのです。日本とカナダの間には素晴らしい実例があります。
fそれが、ハンプトン・グレー大尉と宮城県女川町の物語です。 実は、私は、2022年5月のオタワ赴任の2週間前4月22日、後述する神田義健さんのおはからいで、元カナダ大使で日加協会常務理事の石川薫氏とともに女川町を訪れました。「オタワ便り」第1回に簡単に触れてあります。今回、改めて、発端から最近の出来事まで、皆様と共有させて頂きたいと思います。
ハンプトン・グレー大尉と宮城県女川町
1945年8月9日
第2次世界大戦の最終局面に遡ります。 1945年8月9日、長崎に2発目原爆が落とされました。同じ日に、宮城県女川町も連合国の空襲を受けました。リアス式海岸で天然の良港である女川湾に置かれた防備隊には密かに帝国海軍輸送船団が配備されていました。しかし、連合国のインテリジェンスは、その事実を突き止め、英海軍の空母フォミダブルを中核とする機動部隊が攻撃したのです。攻撃は翌10日も続きました。2日間の攻撃で、日本の軍艦7隻が撃沈され、日本軍兵士158名を含む200名以上が犠牲になりました。連合国側は戦死者1名でした。それがカナダ海軍義勇予備役のロバート・ハンプトン・グレー大尉27歳でした。同僚からは、敬愛を込めて「ハミー」と呼ばれていました。
ハンプトン・グレー大尉
写真ご提供:カナダ政府
ハミー・グレーの足跡
ハミー・グレーは、1940年夏、名門ブリティッシュ・コロンビア大学で学士を習得し、医学部に進学したばかりの23歳でした。 第2次世界大戦は39年9月1日のナチス・ドイツのポーランド侵攻で始まっていましたが、実際の戦闘は東欧と北欧に限定されていました。英仏米では「まやかしの戦争(Phoney War)」と呼ばれていました。しかし、40年5月10日、突如、ドイツがフランスに侵攻。局面は決定的に変わります。戦争が本格化したのです。
そんな状況を受け、医学生ハミー・グレーは、熱い愛国心から英連邦のために志願。戦闘機への憧れからパイロットを志望します。英国で訓練を受け、艦上戦闘機ヴォートF4Uコルセアのパイロットになります。F4Uは破壊力はあるものの重くて扱い難い戦闘機でしたが、グレー大尉は、アフリカ戦線、ノルウェー戦線で功績を上げ、優秀なパイロットとして一目置かれる存在となります。
45年4月、グレー大尉は英海軍の太平洋艦隊に異動します。沖縄戦を経て、8月には、空母フォミダブル機動部隊は、女川湾攻撃の任務に就きます。そして、運命の8月9日が来ます。ハミー・グレー大尉は、攻撃隊長として艦上戦闘機F4U部隊を率いて出撃します。低空飛行で海防艦「天草」に爆弾を投下。日本側の集中的な対空砲火を浴び海へ墜落しました。
カナダの英雄
グレー大尉は、第2次世界大戦における「最後の戦死者」として、カナダで最高の栄誉とされているヴィクトリア・クロス勲章を与えられました。首都オタワの中心部コンフェデレーション広場の北東の角には、カナダが関わった5つの戦争から真の英雄と目されている14人の重要人物の等身大の胸像と銅像が配置されたヴァリアント記念碑があります。ハミー・グレー大尉は14人の1人です。
写真ご提供:在カナダ日本大使館
写真ご提供:在カナダ日本大使館
カナダ政府は、そんな英雄が撃墜された女川の地に、グレー大尉の慰霊碑の建立を計画します。在京カナダ大使館がその旨を女川町に申し入れます。1989年のことです。
女川の慰霊碑と神田義男氏
しかし、カナダにとって英雄でも、地元女川にとっては200人以上の命を奪った女川空襲を指揮した「敵」です。地元では、反対意見が圧倒的に多かったと云います。 ここで、女川空襲当時、日本海軍女川防備隊の通信兵であった神田義男氏が立ち上がります。神田氏は埼玉県出身でしたが、戦後も女川に留まり、地元で衣料品店を経営されていました。そして、終戦から21年後の1966年。地元の戦友会組織「海友親和会」の幹部でもあった神田氏は、戦友に呼びかけて女川空襲の犠牲者の慰霊塔に私費を投じて建てられました。
女川空襲犠牲者の慰霊塔
写真ご提供:山野内駐カナダ大使
そして、時が流れて1989年です。 グレー大尉の慰霊碑への反対意見が盛り上がっている中で、神田氏は、「戦争を憎む気持ちは日本人もカナダ人も同じだ。憎いのは、敵兵ではなく、戦争そのものだ」として、反対者の説得に尽力しました。誠心誠意の説得は功を奏します。1989年8月、慰霊碑は、グレー大尉への敬意と日加の友情として、完成します。除幕式の際には、グレー大尉の実の姉フィリスさんら親族も参加。女川の人々も暖かく迎えます。怨讐を乗り越えての友情です。言うは易く、行うは難し。ですが、女川とグレー大尉の縁は、日加間の素晴らしい絆になって行きます。 グレー大尉と女川の逸話は、ここまででも十分にインパクトがあります。しかし、更に話は続くのです。
奇跡の旗の物語
実は、除幕式の機会に、神田氏は寄せ書きのためのカナダ国旗を用意していました。参加者は、メッセージと名前を書きました。神田氏は、この旗を日加友好のシンボルとして、以後、毎年8月9日に行われる追悼式を含め様々な機会に持参します。日加関係者の寄せ書きが増えていきます。 2003年には、除幕式に来たグレー大尉の姉フィリスさんの孫マルシアさんの結婚式がバンクーバーで行われます。そこには神田氏の家族も招待されます。交流は着実に継続し、深まっていくのです。
2005年、神田氏は他界します。その後も、日加友好の国旗への寄せ書きは続き、やがて余白が埋まると、2代目のカナダ国旗が登場し、寄せ書きは続きます。 しかし、2011年3月11日、東日本大震災の大津波が女川をも襲います。神田氏の家族も家も全てが飲み込まれました。仙台の東北電力勤務だった孫の義健さんは難を免れました。何度も女川に戻って探索しても何の手掛かりもない月日が続いたそうです。しかし、6月、義健さんは、瓦礫の下から、ポリ袋に入れられて丁寧に畳まれた新旧2つの友好の国旗を見つけるのです。 正に、日加友好の「奇跡の旗」です。
初代の旗
写真ご提供:山野内駐カナダ大使
2代目の旗
写真ご提供:山野内駐カナダ大使
寄せ書きは、今も機会ある毎に、続けられています。私も、日本とカナダの友好親善のために最善を尽くすという思いを込めて、署名させて頂きました。
2代目のグレー大尉慰霊碑
東日本大震災の津波は、丘の中腹に建てられていたグレー大尉の慰霊碑も崩してしまいました。そこで、女川の人々は、グレー大尉の慰霊碑を高台にある女川町地域医療センターの敷地の一角で海の見える場所に再建します。 私も、石川薫大使、神田義健さんと共に女川町に伺った時には、女川湾戦歿者慰霊塔に献花させて頂いた上で、この2代目のグレー大尉慰霊碑に献花させて頂きました。日本とカナダの深い友情を知り、身の引き締まる思いでした。
写真ご提供:女川町 伊丹副町長
そこには、次の一節が刻み込まれています。「昨日の敵は今日の友となり、女川の人々は多大の好意をもってこの記念碑の建立を援助した。この碑が、この戦闘の戦歿者全員の霊を慰め、平和と我等両国の友情の変わらぬ徴しとならんことを。」
写真ご提供:山野内駐カナダ大使
深まる交流
そして、先日、義健さんから連絡を頂きました。2023年11月10日(金)、東京は青山のカナダ大使館で開催された 「戦争追悼式」で義健さんの長男・惟吹さん(15歳)が英語でスピーチをした、と。
若干の解説をすると、第1次世界大戦はカナダの歴史にとって極めて大きな意義を持っています。1914年6月28日のサラエボ事件から始まる第1次世界大戦ですが、当時カナダは大英帝国の自治領ですから外交権はありません。参戦はオタワではなくロンドンの決定事項でした。その上、人口800万人のカナダが60万人余のカナダ人を前線に派兵することになる訳です。カナダ人兵士は、ミニーリッジはじめ困難な戦闘で果敢に戦い、連合軍の勝利に大きく貢献します。が、犠牲も大きかったのです。それがカナダの発言力を高めます。ベルサイユ講和条約には、カナダとして代表団を送り署名しています。これが、自治領から名実ともに主権国家へ発展していくカナダの節目になりました。よって、カナダは幾多の戦争に参戦していますが、「戦争追悼式」は第1次世界大戦が終結した1918年11月11日午前11時を記念して、毎年11月11日午前11時に行われているのです。オタワでは、サイモン総督、トルドー首相が参加し、各国大使も参列します。私もです。
それ程、カナダにとって「戦争追悼式」は大切な式典です。そこに神田さんご家族が招かれ、御子息が英語でスピーチをされたというのは、本当に素晴らしい事です。グレー大尉と女川の交流が神田義男氏の曾孫に引き継がれている訳です。78年を超える交流です。その意義深さ故に報道もされています。
結語
義健さんからは、グレー大尉の姉フィリスの孫のマルシアさんが現在オタワ在住ということで、連絡先を頂戴しました。早速、オタワの日本大使館の駐在防衛官と広報文化班長が、グレー大尉の親族マルシアさんと面談し、日加交流の促進について意見交換しました。日加間の友好と友情が着実に深まっています。
写真ご提供:在カナダ日本大使館
グレー大尉と女川町の素晴らしい交流は語られるべき物語だと確信します。より多くの人々に知ってもらいたいですし、次の世代に伝えて行きたいと思います。
(了)
文中のリンクは日加協会においてはったものです。
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