Column: オタワ便り NO.23 (2024年3月)
タカハシ道場
山野内在カナダ大使
日加協会の皆様、カナダファンの皆様、日加関係の発展を応援して下さっている皆様、こんにちわ。
オタワも3月の声を聞き、日照時間も随分と長くなって来ました。12月の冬至の頃は日没時間も早く午後4時になるとほぼ真っ暗という感じでしたが、最近は天気が良いと早春の雰囲気も漂って来るほどです。特に、3月10日には夏時間が始まり、正に春遠からじ、を実感します。
はじめに
今年、2024年は、日加関係にとって重要な幾つかのアニバーサリーに当たります。「赤毛のアン」の作者、 ルーシー・モード・モンゴメリー生誕150周年、カナダの横浜貿易事務所設置から120周年、東京・青山にカナダが大使館を設立して95周年、日加通商協定締結70周年などです。そして、カナダに史上初めて柔道の道場が設立されてから今年で100周年になるのです。
タカハシ道場
写真ご提供:タカハシ道場
話は、1922年に遡ります。この年、鳥取出身の佐々木繁孝19歳がバンクーバーに移住して来ます。商店の店番をしながら経営学を学び未来を夢みる青年でした。実は、佐々木は12歳から柔道を始めていて、移住した頃は柔道2段。鳥取県のチャンピオンになり、米子高校で柔道を指導した経験もありました。
その佐々木がカナダに移住して2年が経った1924年、バンクーバーのダウンタウン、パウエル通りに、ザ・バンクーバー・ジュードー・クラブ「体育道場」を開設しました。嘉納治五郎が始めた柔道の2つ基本、「精力善用」と「自他共栄」を実践する場としたのです。道場には多くのカナダ人が通い始めます。佐々木と彼の弟子達は、ブリティッシュ・コロンビア(BC)州各地に「体育道場」の支部を開いていきます。
1932年には、バンクーバーRCMPの訓練科目として、ボクシングとレスリングに代わって柔道が採用されるまでになります。柔道の持つスポーツとしての普遍性が証明されたとも言えます。また、この年、ロサンゼルス・オリンピックの日本選手団を率いた嘉納治五郎が、日本への帰途、バンクーバーに立ち寄り、佐々木らを激励し、「体育道場」に「気道館」という名称を授けます。近代柔道の創始者、治五郎先生からお墨付きを得て、カナダの柔道は一層発展していきます。
佐々木は、カナダでは、Shigetaka “Steve” Sasaki と呼ばれ、「カナダ柔道の父」と目されています。その「体育道場」開設から今年で100年なのです。
という訳で、今回の「オタワ便り」は、カナダ柔道100周年にも思いを致しつつ、オタワにおける柔道の拠点、タカハシ道場について、皆様と共有したいと思います。タカハシ道場は、今から55年前の1969年、日系カナダ人2世の柔道家マサオ・タカハシ八段(当時四段)が立ち上げました。以来、オタワを超えて、カナダにおける柔道の発展に顕著な役割を果たして来ています。同時に、タカハシ道場は、オタワにおける日系コミュニティーの拠点でもあります。
マサオ・タカハシ氏とタカハシ道場の生徒
写真ご提供:タカハシ道場
タカハシ道場の門下生たち
まず、タカハシ道場の大きな功績を如実に示すのが門下生です。
タカハシ道場の畳から、これまで4人のオリンピック選手、18人のカナダ・チャンピオン、5人のカナダ柔道の殿堂入りした柔道家を輩出しているのです。
特筆すべきは、2期16年にわたり政権を担ったピエール・トルドー首相もまた、現役の首相時代に、タカハシ道場で汗を流したのです。多文化主義を提唱し、ケベック独立問題を乗り越え、中国との国交正常化を米国に先んじて達成し、G7入りして、1982年憲法を成立させる等、カナダの発展に大きな足跡を残しました。柔の技と精神が、心身共に極めて過酷な負担を強いる長期政権を支えたと言っても過言ではないでしょう。
そして、今からちょうど40年前の閏年1984年2月29日の水曜日のことです。トルドー首相は、タカハシ道場で汗を流した後、雪の中を散歩し、辞任を決意。翌3月1日にその旨を表明します。国政の最も重要な瞬間にタカハシ道場が関わっていた訳です。
右からマサオ・タカハシ氏、ジャスティン・トルドー首相、ピエール・トルドー元首相、ジャスティン・トルドー首相の弟二人、タカハシ道場にて
写真ご提供:タカハシ道場
実は、ピエール・トルドー首相の息子、ジャスティンも少年時代にタカハシ道場で柔道を学んでいます。ジャスティン・トルドー首相と話す機会があった時に、私の方からタカハシ柔道について言及した際には、懐かしそうに微笑み、良き思い出ですと述べられたのが印象的でした。そして、ジャスティン・トルドー首相もまた御子息と御子女を高橋道場に通わせました。また、日系カナダ人とのリドレス合意を達成したブライアン・マルルーニ首相も御子息を高橋道場に入れています。日本文化の促進と日本とカナダの友好親善の発展という意味でも本当に意義深いものがあります。
マサオ・タカハシの旅路
そんなタカハシ道場の創設者マサオ・タカハシ氏の人生は、日系カナダ人2世として、日本とカナダの関係の歴史的な変遷を体現しているかのようです。
しかし、1941年12月7日(カナダ時間)、マサオ少年が12歳の時に、太平洋戦争が勃発。日本とカナダは敵として戦います。開戦直後にカナダ国政府は、日系カナダ人を敵性国人として指定。翌42年1月以降、大きな日系カナダ人 コミュニティーのあったBC州からの強制移住や収容が行われるなどの迫害を受け、日系カナダ人は極めて厳しい状況に直面します。タカハシ一家も財産を没収されアルバータ州レイモンドに強制移住させられます。マサオ少年は、ビート農場で働かされ、学校へ通うことも禁止される過酷な環境に置かれます。しかし、柔道の練習だけは続けます。そして、1945年8月15日、太平洋戦争は終わります。
とは言え、終戦後、日系カナダ人のBC州への再移住は、1949年4月までは認められませんでした。白人が多数を占める社会の中にあって日系カナダ人は、旧敵性国民として、また民族的マイノリティーとして、陽に陰に言われなき差別を受けました。
そんな中、マサオ少年は、1948年、高校を卒業。そして、1949年、マサオ青年は、少数民族の採用を始めていたカナダ国防省に採用され、空軍に就職します。モントリオール、トロントを経て、オタワの航空エンジニア部門に配属されます。
マサオ青年は、空軍での業務に当たる傍ら柔道の修行に励みます。同時に、空軍内、更には、オタワ地域において精力的に柔道の指導に当たります。折しも、1964年の東京オリンピックで柔道が初めて五輪種目となったことで柔道は一層注目されていきます。マサオ氏は、空軍関係者及びオタワの地元民の間で、柔道家として尊敬を集める存在となります。それは、決して容易でない境遇に置かれていた日系カナダ人の地位向上にも繋がりました。
タカハシ道場の始まり
1969年10月、マサオ氏は、オタワのダウンタウン、メルローズ通りに、タカハシ道場を開設します。不惑の年を迎え、空軍に籍を残しつつも、柔道指導者として第2の人生を歩み始めます。1970年1月には、当時の近藤駐カナダ特命全権大使も参加して、道場で日本の伝統に則り正月の餅つきや鏡開きも行われました。マサオ氏の長男アリーン・タカハシさんは当時中学生で、その様子を鮮明に覚えていると語ってくれました。
そして、マサオ氏は、空軍勤続22年を経て、除隊。タカハシ道場の運営に専念します。 そもそも、道場の開設前から、マサオ氏は、オタワ在住の青少年に柔道指導を行っていました。故に、タカハシ道場には、エスニシティーを超えて多数のカナダ人青年が参集するようになりました。
技だけではなく心をも鍛える柔道の核心に依拠する、カナダにおける最高レベルの柔道指導です。世界レベルの柔道家を多数育成しました。更に、マサオ氏は講道館の国際部とも緊密に連携。タカハシ道場の門下生を日本に派遣し、柔道の母国での修練の機会を与えると同時に、日本からも柔道訓練生を積極的に受け入れました。柔道を通じた日本とカナダの青年交流にも大きく貢献した訳です。
やがて、マサオ氏は、カナダ柔道界の 「生みの親」たる存在として名声を得るに至ります。
また、上述のとおり、オリンピック選手やカナダ・チャンピオン等の柔道家のみならず、首相やその子弟へも柔道を指導しています。マサオ氏は、柔道指導を通じて日本とカナダの友好親善にも大きく貢献されました。
そんな、マサオ氏の高潔かつ誠実な人柄やリーダーシップと実行力は、カナダ国空軍、オン タリオ州政府さらには地域の柔道関係者から大きく評価されました。後年、カナダ国政府 、オンタリオ州政府などから同人に多くの賞が授与されることになります。
日系人リーダー、マサオ・タカハシ
また、マサオ氏は、柔道指導を超えて、優れたリーダーシップを発揮します。
従来、オタワ在住の日系カナダ人は、率直に言って、組織的まとまりに欠けていたようです。太平洋戦争時代の塗炭の苦悩故かもしれません。しかし、マサオ氏は、1976年、オタワ日系協会(OJCA)の設立を呼びかけます。設立準備会議を組織して議長を務め、オタワ日系協会設立のために奔走し、翌76年に、OJCAが設立されました。
1977年は、最初の日本人移民、永野万蔵のBC州来訪から100周年でした。太平洋戦争の終戦から30年余を経て、日系カナダ人の誇りある自意識とカナダ社会における地位が大きく向上していく時期でした。首都カナダに日系人組織の在る意味は大きかったのです。
その後 マサオ氏は、1978〜79年、そして85〜86年の2回にわたりOJCAの会長を務めます。オタワ地区の日系カナダ人コミュニティーの発展に大きく貢献しました
そして、歳月は流れ、2002年、マサオ氏は72歳になります。日本政府は、マサオ・タカハシ氏に旭日瑞宝章を叙勲します。その功績は、
① 戦後のカナダにおける日系カナダ人の地位向上、
② 柔道を通じた日本とカナダの友好親善の促進、
③ オタワにおける日系カナダ人コミュニティーの発展、です。
今日の極めて良好な日加関係と大きな尊敬を集める日系カナダ人を思う時、マサオ・タカハシ氏の功績には本当に大きく、感謝しても感謝しきれないと思います。
マサオ・タカハシ一家
写真ご提供:タカハシ道場
結語〜拡充するタカハシ道場
上述のとおり、偉大なマサオ氏は素晴らしい指導者でしたが、実は、タカハシ道場には、マサオ氏以外にも指導者がいたのです。
マサオ氏の愛妻ジュン女史もまた柔道家です。カナダにおける女性柔道家として初めて黒帯を獲得し、最高段位である七段の保持者です。カメルーンの女子柔道ナショナル・チームの監督も務めました。
柔道指導から始まったタカハシ道場ですが、徐々に、柔道に加え、柔道の「型」、剣道、空手、居合道をも本格的に学べる道場へと拡充されて来ました。柔道「型」のパラリンピアンもタカハシ道場から巣立っています。
タカハシ道場近況
写真ご提供:タカハシ道場
ここで、私事をひとつ。2024年2月4日の日曜日です。雪深い日でした。招待を受け、タカハシ道場に参りました。実は、この日は、タカハシ道場が、オタワ囲碁クラブの碁会所の一つとなる記念の日だったのです。囲碁は全く駄目な私ですが、最初の石を置く儀式をさせて頂きました。毎週日曜日の午前11時から午後2時半まで、囲碁の愛好家が集まって技を競うのです。カナダの多様性と包摂性を象徴するように、日系、アジア系、以上に他のエスニックの方々が多かったのが印象的でした。
囲碁トーナメント
写真ご提供:在カナダ日本大使館
今や、タカハシ道場を切り盛りしているマサオ氏の長男のアリーン氏が「タカハシ道場の大切な使命は、オタワにおける柔道をはじめとする武道を通じて日本とオタワの友情を育むことだが、新たに囲碁の普及に寄与できることが嬉しい」と挨拶されたのが印象的でした。
タカハシ道場はオタワ市民の宝です。
(了)
文中のリンクは日加協会においてはったものです。