オタワ便り第31回 11月 人工知能とノーベル物理学賞〜ジェフリー・ヒントン博士を育んだカナダの力量

山野内在カナダ大使

はじめに

日加協会の皆様、日加関係を応援頂いている皆様、こんにちは。

11月の声を聞くと、地球温暖化の時代とは言えども、オタワは一気に冬の装いです。美しかった紅葉もほとんど落ちました。そして、雪も舞い始めました。雪が本格的に積もる前に必ずやっておかなければならない事の一つが、自家用車のタイヤを冬季使用のスタッドレスに履き替えることです。オタワ市民の初冬の風物詩です。早めに予約しないと、何日も待つ羽目になりかねません。が、高額を払って業者にやってもらうよりも、自分で履き替える車好きの人もいます

さて、今回の「オタワ便り」は、2024年のノーベル物理学賞を受賞された人工知能(AI)のゴッドファーザーと呼ばれているトロント大学 名誉教授のジェフリー・ヒントン博士についてです。英国出身のヒントン博士の受賞は、カナダの先端技術研究の奥深さを示す格好の事例でもあります。

ジェフリー・ヒントン博士

写真ご提供: Voughn Ridley/Collision via Sportsfile

AIと現代

AIは、21世紀に生きる私たちの暮らしと仕事のスタイルを根本的に変えつつあります。老若男女、誰もが画像認識機能の携帯電話を持ち、キャッシュレスで買い物し、Siriに道順を尋ねます。Netflixが個々人にお勧めの映画情報を提供し、ドローンが時間に合わせて宅配。ChatGPTが論文まで仕上げる。そんな時代です。

日本が議長を務めた昨年のG7広島サミットでもAIは主要な議題でした。21世紀の厳しい現実に直面しつつも核軍縮不拡散に向けた明確な意思を確認し、ウクライナ危機、経済安全保障など現在の国際社会が直面する課題に日米英独仏伊加EUの首脳が率直に議論し、首脳コミュニケが発出されると共に、喫緊の課題として、生成AIに係る議論を進める「広島AIプロセス」も発足しました。

広島のG7サミット

写真ご提供: 外務省

「広島AIプロセス」は、G7の関係閣僚が中心となってAIの活用や開発、規制に関する国際ルール作りを推進するための議論の枠組みです。AIは、創造性や革新性を高めてより良き社会に貢献する一方、偽情報やフェイク・ニュースの流布、著作権侵害など深刻なリスクも伴うので、AIの安全性と信頼性を確保するためのガバナンスが不可欠です。

実は、G7首脳が広島で、AIについて議論している頃、AIの『ゴッド・ファーザー』と呼ばれるトロント大学名誉教授のジェフリー・ヒントン博士もまたAIに関して警鐘を鳴らしていたのです。「ChatGPT」に代表される、生成AIは、質問を入力するだけで、まるで人間が書いたような文書で回答を作成できる。その解き放たれた高度な技術は人々の暮らしを豊かにする一方で、核戦争並みの脅威になりうる」と。「人類の終わりを意味する可能性がある」とまで述べています。そこまでの警戒心を抱いたきっかけは非常に興味深いのです。

それは、ヒントン博士がたまたま思いついたジョークをグーグルのAI言語モデル「PaLM」に説明するよう指示したそうです。すると、そのジョークの面白さを的確に説明できたと云います。 このPaLMは人間の脳に比べれば、さほど複雑ではないにもかかわらず、人が一生をかけて獲得する論理性を既に手にしているのです。 博士は、数年以内に人間を凌駕する可能性があると信じるに至ったそうです。

ヒントン博士こそがAIの可能性を信じ、革命的進化をもたらした人物です。AIの光のみならず影をも熟知するが故に、警鐘を鳴らしている訳です。人生の大半をかけてAIの研究開発に取り組んで来たのに何とも言えない皮肉な展開とも言えます。が、そのヒントン博士に、2024年のノーベル物理学賞が授与されることとなったのです。

それでは、ここまでの道のりを振り返って見ましょう。

ジェフリー・ヒントン〜AIゴッドファーザーへの道

ヒントン博士は、1947年、英国ウィンブルドン生まれで、ケンブリッジ大学に進学します。好奇心旺盛で、自然科学、美術史、哲学と頻繁に専攻を変えていますが、1970年に実験心理学で学士号を得て卒業。本当は、心理学を化学や物理学と結びつけて人間の脳の思考回路を研究したかったのに、世界最高峰のケンブリッジですら、そんな誰も思いもつかぬ構想を提案すると「お前はクレージーだ」と言われます。その時は、学問に嫌気がさして、大工になろうと思ったと云います。 因みに、今も趣味は、日曜大工だそうです。

1972年、エジンバラ大学院に進み、人間の思考回路を研究。1978年、人工知能で博士号を取得します。が、当時の英国では、ヒントン博士が思い描く研究を続けることは叶いません。そこで、31歳の時、米国へ渡り、カリフォルニア大学サンディエゴ校で研究員の職を得ます。その後、1982年、35歳でペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー・メロン大学教授に就任。博士の才能が正当に評価されたのです。しかし、1980〜90年代は「AI冬の時代」です。しかも、短期的な成果を求められる米国での基礎研究は容易ではありません。その上、AI研究の助成の大部分が国防費から拠出されていた事実も、博士は嫌だったそうです。

トロント大学

そこで、ヒントン博士は、1987年、不惑の歳、拠点をトロント大学に移し、人間の脳の構造をアルゴリズムで再現する機械学習の手法である「ニューラルネットワーク」研究を本格化させます。しかし、当時のAI研究の主流からは完全に外れたもので、世の注目を浴びる事もありませんでした。論文を書いても、「サイエンス」や「ネイチャー」といった主要な学術誌には掲載されません。が、ヒントン博士は、四半世紀にわたり、AIの革新的飛躍の基礎をつくって行きます。何故、そんな事が可能だったのでしょうか?

研究支援を続けたCIFARの功績

"カナダ先端研究機構(CIFAR: Canadian Institute for Advanced Research)」がその鍵を握っています。CIFAR は1982年に設立された非営利団体で、カナダ連邦政府や州政府、個人からの出資で運営されています。カナダにおけるAIやバイオテクノロジーをはじめとする先端技術の研究を一貫して支援。前例は無く、注目もされず、利益を生むと保証されている訳でもない未知の領域の探求を支え続けているのです。未来を変える大発見・発明に繋がる戦略的な揺籠と言えます。

CIFARは、一貫してヒントン博士の研究を支援し、博士は、2004年に、「神経計算と適応知覚」という研究プロジェクトを立ち上げます。膨大な情報処理・演算を高速で行う高性能のコンピューターで自らの構想を実際に試すことができるようになり、研究が進展します。それでも、最先端科学の研究は、極めて専門性が高く緻密な思考の上に立脚しており、一般には極めて難解。しかも、研究者の間には、苛烈な競争もあり、斬新な発想は簡単には評価されない現実がありました。

歳月が流れ、ヒントン博士がトロント大学に移って25年が経った2012年9月、遂に、その成果が誰の目にも明らかになります。舞台は、物体認識のデータベース「イメージ・ネット」が主催する画像認識技術の世界コンテスト。1000万を超える膨大な画像データから、写った対象物を認識する正確性を競うものです。結果は、全くノーマークだったヒントン教授率いるトロント大学の研究チーム「スーパー・ヴィジョン」が2位以下に圧倒的な差をつけて優勝したのです。  そこで使われたのが上述の「ニューラルネットワーク」に基づくアレックス・ネットというソフト。 これこそ、ディープ・ラーニングあるいはマシーン・ラーニングと呼ばれるAIの圧倒的な可能性を世に知らしめた瞬間です。

チューリング賞と二人の盟友〜ベンジオとルカン

偉大な業績を見るにつけ、何事も一人で達成されることはありません。常にチームが存在します。 ヒントン博士の場合、厳寒の時を共に過ごした二人の盟友がいます。

ヨシュア・ベンジオ教授

写真ご提供: Maryse Boyoe

まず、モントリオール大学ヨシュア・ベンジオ教授。1969年パリ生まれですが、モントリオールの名門マギル大学で、電気工学の学士、計算科学の修士、博士号を修めます。1993年からモントリオール大学で教鞭を取り、やがて、人の脳内にある神経細胞とその繋がりをコンピューター内で再現することを目指します。ヒントン博士のニューラル・ネットワークの研究に魅せられます。 「知能」は物理の法則のように、いくつかのシンプルな原理で説明できるというコンセプトが若き天才を刺激したのです。

ヤン・ルカン博士

写真ご提供: Jérémy Barande

もう一人が、ヤン・ルカン博士。現在ニューヨーク大学教授です。1960年、パリ郊外に生まれ、ソルボンヌ大学で計算機科学の博士号を取得。その後、ポスドクの博士研究員として、トロント大学のヒントン研究室に所属します。ここでの研究がルカンの未来を決定づけるのです。CIFARの支援でヒントン博士との共同研究に参画。「畳み込みニューラルネットワーク(CNN)」と呼ばれる手法を開発し、深層学習アルゴリズムの性能を向上させた。2013年には、ベンジオ教授と共同で表現学習国際学会(International Conference on Learning Representations)を立ち上げ、ディープ・ラーニングに密接に関わる機械学習についての研究を深化させます。

現在、私たちが日常的に使っている携帯電話の画像認証や自動翻訳なども元を辿れば、ディープ・ ラーニングを進化させて来た、ヒントン、ベンジオ、ルカンの三人の研究の賜物なのです。

そして、2019年3月、三人は、コンピューター科学のノーベル賞と言われるチューリング賞を共同受賞します。それを期に、三人は「AIゴッドファーザー」と呼ばれるようになりました。

実は、3人とも、カナダ生まれではありません。活躍の場も、米国のグーグルやメタといった超巨大企業を筆頭に世界を股にかけています。 しかし、快進撃は、2012年のイメージ・ネット画像認識コンテストの勝利以降です。そこに至るまでの雌伏の期間、傍流扱いされ、無視されていた研究を支えたのはカナダでした。 苛烈過ぎる競争と短期的収益と計量化が貫徹している米国では、この研究は無理だったとも言われています。3人の長年にわたる地道な研究は、カナダでこそ実を結んだのでした。

ノーベル物理学賞〜AIゴッドファーザーを生んだカナダの戦略

そして、2024年10月、ノーベル物理学賞は、「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にした基礎的発見と発明の業績」に対して、ヒントン博士が受賞しました。  実は、物理学賞のカテゴリーで、史上初めてコンピューター・サイエンス分野の業績に授与された画期的な出来事でもあるのです。

また、今回の受賞は、米プリンストン大学のジョン・ホップフィールド教授との共同受賞です。この分野での米国の底力も見せつけていますが、過小評価されがちなカナダの最先端科学技術の力量を世界に示した訳です。

実は、AIという発想は既に1950年代には提唱されていました。が、現代のようにAIが飛躍的に発展し社会の隅々にまで及ぶようになった革新的要因は、ヒントン博士を筆頭とするディープ・ラーニング研究です。カナダがAIゴッドファーザーを育んだ事は、誇るべきことです。一方、ヒントン博士が設立したカナダのスタートアップ企業「DNNリサーチ社」はグーグルに買収されたのも事実です。最先端の研究がビッグ・ビジネスに繋がる大きな潜在力を持つと同時に、それ故にグローバルな競争は激化しています。

そこで、カナダの取り組みを見てみましょう。

2017年3月、カナダ連邦政府は、AIに関する国家戦略「汎カナダ人工知能戦略(Pan-Canadian AI Strategy)」を打ち出します。CIFARに対し1億25百万加ドルを投入し、トロント大学、モントリオール大学、アルバータ大学と連携してAI開発を加速。 狙いは次の4つです。

① カナダにおいて、優れたAI研究を担う技術者、卒業生、大学院生を増やす。

② トロント・ウォータールー、モントリオール、エドモントンにある主要なAI研究所の連携と協働の基盤を強化して科学的に卓越した相互連結点をつくる。

③ AI発展における経済,倫理,政策,法的影響に関するグローバルなリーダーシップを構築する。

④ AIに関するカナダ国内の研究コミュニティーを支援する。

このAI国家戦略を打ち出して以来、カナダのAI研究は、自動運転、気候変動、健康分野で一層の発展を遂げ、ベンチャーキャピタルによる大規模な投資も活発です。2017〜19年の間で、AIを含むITC分野のカナダへの外国直接投資が約50%増加したとの統計もある程です。 結果、多数のスタートアップ企業が、トロント・ウォータールー、モントリオール、エドモントンに集積し、米国カリフォルニアのシリコンバレーに匹敵する程のAIスーパークラスターが形成されています。

そして、2022年6月、カナダ連邦政府は、第2期「汎カナダAI戦略」を打ち出しました。資金投入額は、第一期からほぼ4倍増の4億43百万加ドル以上です。世界水準の人材を確保し、先端の研究能力を用いて、国内でビジネスに結びつける狙いです

結語

今般のヒントン博士のノーベル物理学賞受賞は、ハイテク分野のカナダの力量を示しました。   商業化への奨励と責任あるAI開発支援に本気で取り組み、世界のリーダー足らんというカナダの姿勢と軌を一にします。

今や、AIは、科学技術、ビジネス、雇用の問題だけでなく、安全保障に直結し、倫理、政治のリーダーシップにも関わります。 ヒントン博士のお膝元トロント、ベンジオ教授のモントリオール、更に前回の「オタワ便り」で言及したリチャード・サットン教授の拠点エドモントンを含めてカナダが、AIを巡る潮流の発信地となっています。 米国企業も日本企業も注目しています。 今後の展開に目が離せません。

(了)

文中のリンクは日加協会においてはったものです。

Toronto/トロント

 

Montreal/モントリオール

Edmonton/エドモントン