Column: オタワ便り NO.34 (2025年2月)
オタワ便り第34回2月 2025年1月27日〜オタワで語られるアウシュビッツ解放80年
山野内在カナダ大使
はじめに
日加協会の皆様、日加関係を応援頂いている皆様、こんにちわ。
最近のオタワでは、前回ご報告したトルドー首相辞任の意向表明を受けて、自由党党首選挙及びトランプ大統領就任後の25%関税賦課を巡る動向等に注目が集まっています。それらに関連した出来事が日々起こり、報道も加熱しています。しかし、オタワは首都ですから、内政以外にも、政治・経済・外交・文化・コミュニティー等に関わる実に様々なイベント・レセプション等が開催されています。当然ながら、それぞれのイベントには主催者の思いが込められていて、入念な準備を経て本番を迎える訳です。そして、オタワの外交団に招待状が届くのです。私に日々様々なイベントに招待され、興味をそそられる行事も多いのですが、日程上の制約等もあって参加出来るイベントは限られているのが現実です。
そんな中、オタワでは、アウシュビッツ強制収容所がソ連軍によって解放された日である1月27日前後に、毎年ホロコースト追悼式典が開催されています。特に、今年は、1945年の解放から80周年の節目の年に当たることから、関連の行事が多数開催されました。世界各地で紛争が続き排他主義が広がる中、ホロコーストの悲劇を語り継ぐことの大切さを改めて実感する次第です。
という事で、今回の「オタワ便り」では、アウシュビッツ強制収容所解放80周年とホロコースト教育についてです。
Never Againの共鳴
アウシュビッツ強制収容所は、1940年1月にナチス・ドイツ占領下のポーランド・オシフィエンチム市郊外に建設が決定され、5月に親衛隊(SS)全国指導者のハインリヒ・ヒムラー下で開所。ユダヤ人ら110万人以上がここで虐殺されました。1945年1月27日にソ連軍が強制収容所を解放した時には、約7,500名が留まっていたとみられます。1979年にユネスコの世界遺産リストに登録されました。「負の遺産」です。
そのアウシュビッツ強制収容所の解放日1月27日に先立ち、24日の金曜日午前10時より、オタワ中心部の連邦議会議事堂地区の一角にあるサー・ジョン・マクドナルド会館において、「アウシュビッツ解放80周年式典」が、ホロコースト追悼委員会とマーク・ゴールド上院議員(無所属)との共同で開催されました。因みにこの会館は、初代カナダ首相の名前を冠した格式が極めて高い場所です。
当日は、議会関係者、ユダヤ・コミュニティー関係者、ホロコースト教育関係者、当地外交団が参加しました。ドイツ、イスラエル、ポーランド、コロンビア、アルゼンチン、アイスランド、東欧各国の大使と共に私も参加しました。
冒頭、式典共催者のゴールド上院議員からトルドー首相の以下のメッセージが代読されました。
「アウシュビッツ・ビルケナウの強制収容所で起こった出来事は、私たちが憎しみに屈したときに、何が起きるかを想起させる。80年後の現在、我々は何百万人もの、ユダヤ人に与えた想像絶する恐怖の記憶を思い起こし、憎悪と反ユダヤ主義蔵と闘うこと、また、『二度と繰り返さない(Never Again)』という確固たる誓いを再確認する。」
Never Again の力強い思いが会場に浸透しました。

山野内大使とゴールド上院議員
写真ご提供:在カナダ日本大使館
アウシュビッツ生存者の渾身の証言
そして、この日の式典の最大のハイライトがアウシュビッツ収容所生存者で現在オタワ在住のデヴィッド・モスコビッチ氏による講演です。モスコビッチ氏は現在95歳。己の人生を振り返り、矍鑠とし、低く力強い声で、原稿を見ることなく、語る姿には胸を打つものがありました。
「自分(モスコビッチ氏)は、ハンガリーの農村コナスに1929年生まれた。決して裕福ではなかったが、美しい村で家族と幸せに暮らしていた。第二次世界大戦が勃発し、田舎の農村生活にも暗い影が来た。それでも日常生活はあった。しかし、14歳の時、両親と兄と一緒に、アウシュビッツへ強制収容され、人生が一変した。そこで最初に目にしたのは、うず高く積まれた靴や衣類だった。家族が離れ離れになり違う隊列に入れられた。自分が属した隊列は、バラックに入れられ、強制労働に従事させられた。自分は煉瓦積みだった。連合国空軍の空襲で崩れた建物を修復したりした。極めて酷い食事だった。他の隊列に並ばせられた人々は、ガス室に送られた。」
と、淡々と語るモスコビッチ氏。無辜の命が残忍な仕打ちで大量に奪われる様を見ていた14歳の少年時代。言葉を噛み締め、目を大きく見開き、口を真一文字に結んでらっしゃいました。決して忘れることのできない80年以上前の体験の貴重な共有です。多数の参加者が涙ぐんでいました。
「今、自分(モスコビッチ氏)がこの会場で皆様の前でこうして語っていることが信じられない。地獄を生き抜き、希望を忘れず生きて来た。人生は美しい」と締め括られました
式典終了後に、私はモスコビッチ氏と極短時間でしたが言葉を交わす機会を持ちました。握手させて頂きましたが、「自分の拙い話を聞いてくれてありがとう」と仰って力強く握ってくれたのが印象深かったです。私は「モスコビッチさんの言葉は胸に刺さり、語り継ぐことの大切さを改めて得心しました。大使として最大限尽力します」と申し上げました。

モスコビッチ氏と握手する山野内大使
写真ご提供:在カナダ日本大使館

モスコビッチ氏の孫(前列左から2人目)、モスコビッチ氏、同夫人(右)
写真ご提供:在カナダ日本大使館
ホロコースト追悼式典
そして、80周年の当日1月27日(月)午前11時には、国立ホロコースト記念碑において、ホロコースト追悼式典が開催されました。この式典には、例年、首相が参加していますが、今年は、解放80周年の記念式典がポーランドのアウシュビッツ収容所跡で開催され、トルドー首相はそちらに参加しました。従って、連邦政府を代表して、モロッコ・ユダヤ系のレイチェル・ベンダヤン公用語大臣が出席されました。
冒頭、ベンダヤン大臣が挨拶。ホロコースト生存者の遺産継承の重要性を力強く訴え、連邦政府の取り組みを紹介しました。同時に、反ユダヤ主義への断固たる対応が喫緊の課題であるとして、党派を超えた対応の必要性を強調しました。
次に登壇したのは、ポリエーヴ保守党党首です。青年時代にアウシュビッツからビルケナウまでの行進に参加したことを紹介しました。その上で、残念ながら、カナダには反ユダヤ主義が蔓延している旨指摘。イスラエルへの連帯を強調しつつ、反ユダヤ主義を煽る移民に対しては、査証取り下げや国外追放といった強い措置が必要である旨述べていました。
この関連で申し上げれば、移民立国カナダは多文化主義で多様性と包摂性を重んじています。よって、アラブ系の市民もユダヤ系の市民も等しくカナダ人として、社会を構成しています。が、中東情勢はカナダのアラブ・コミュニティー、ユダヤ・コミュニティーに陰に陽に影響を与えています。特に、2023年10月のハマスによる対イスラエル・テロ、それに対抗するイスラエルの攻撃、ガザの厳しい状況を目の当たりにすると、カナダの中でアラブ系とユダヤ系の間に激しい対立と反目が生まれました。反ユダヤ主義的な暴力事案が頻発する事態に至っています。これが両者の発言の背景です。
国立ホロコースト記念碑
この追悼式典が開催された国立ホロコースト記念碑について簡単に述べたいと思います。この記念碑はオタワ市中心部の連邦議会、最高裁判所、公文書館が位置する地区に隣接しています。ホロコーストで命を落とした6百万人のユダヤ人を追悼するために建てられました。著名な建築家ダニエル・リベスキンド氏の設計により、2017年9月27日に公開されました。この記念碑のデザインは喪失と記憶、そして生存の風景を象徴しています。上空から見れば、この記念碑が収容所で使用された階級バッチを表す星形をしています。そして、自由を象徴する連邦議会のピースタワーが記念碑の先に見えるように設計されています。
ホロコースト生存者であるローラ・グロスマン氏の尽力によって建設が可能となりました。カナダにおけるホロコーストの歴史を学び、犠牲者を追悼する場として、極めて重要な施設です。
ユダヤ系イタリア人の物語
アウシュビッツ解放80周年の1月27日、オタワで開催されたイベントの中で、もう一つ極めて強い印象を受けたイベントを皆様と共有します。
それは、駐カナダ・イタリア大使とホロコースト教育センターの共催により歴史博物館にて開催された、ユダヤ系イタリア人の辿った道程を紹介するものです。
最大のハイライトは、2024年10月のローマ・フェスティバルで上映されたルジェッロ・ガッバイ監督のドキュメンタリー映画「リリアナ(Liliana)」のプレビューです。この作品は、ミラノのユダヤ系イタリア人家庭に生まれたホロコースト生存者にして、現在はイタリアの終身上院議員を務めておられるリリアナ・セグレさんの証言を収めたものです。
まず、歴史的な背景を簡単に記します。イタリアには、古くからユダヤ人コミュニティーが存在し、政治・経済・文化の分野で活躍していました。シェークスピア「ベニスの商人」を思い出します。時は下って、20世紀。1922年にムッソリーニのファシスト党が政権を握って状況が変化し始めます。当初ムッソリーニは反ユダヤ的立場を取っていませんでしたが、1938年に「人種法」が導入され、ユダヤ系イタリア人は公民権を剥奪されます。第二次世界大戦が始まり、ドイツと同盟を結び、1940年に連合国に宣戦布告します。そして、43年7月にムッソリーニ政権が崩壊し、イタリアは休戦します。しかし、ナチス・ドイツ軍が北イタリアを占領し「サロ共和国」が設立されると状況は一変します。1943年10月には「ローマ・ゲットー襲撃」も起こり、ユダヤ人が逮捕され、アウシュビッツへと送られました。
そこで、リリアン・セグレさんの証言に戻ります。1944年1月、13歳の時、父親とともにスイス亡命を試みましたが失敗。逮捕され、アウシュビッツに送られました。過酷な労働を強いられ、家族とも離れ離れになりましたが、生き残りました。戦後は、半世紀にも亘る間、自身の体験を語る事はありませんでした。しかし1990年代から若い世代に向けて証言を始め、ホロコーストの記憶を伝える活動を続けています。その功績が讃えられて、終身上院議員に任命されました。
想像を絶する苦難だからこそ語り継ぐことが大切だと、評論家的に言うのは簡単です。しかし、筆舌に尽くし難い苦悩を実体験し、家族・友人・知人が犠牲になり自分だけが生き残った時に、その体験を他の人に語ることは大変な心理的負担があると思います。半世紀を経て語り始めたリリアンさんの勇気に胸が打たれました。
結語
第二次世界大戦の終結から今年で80年。ホロコースト生存者は高齢化しています。生の声をしっかり次の世代に継承していくことが極めて重要です。その観点から、ホロコースト教育の一層の充実が求められていると実感しています。
この関連では、非常に厳しい状況で欧州のユダヤ難民に対し日本への通過ビザを発給した杉原千畝氏をはじめ、彼らの逃避行を支援した日本の外交官や民間人の人道的・献身的な行為についても、語り継ぐことが重要だと思っています。
本年3月には、「命のビザ、遥かなる旅路-杉原千畝を陰で支えた日本人たち」等の著書を出し、杉原ビザに関連する詳細を調査し、併せて精力的に講演をなさっている北出明氏がウィニペグ、オタワを訪問されます。カナダには、イスラエル、米国、フランスに次いで、大きなユダヤ・コミュニティーがあります。ホロコースト教育の一環として、有意義なカナダ訪問となるように、私としても全面的に協力したいと思います。
(了)
文中のリンクは日加協会においてはったものです。
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