Column: オタワ便り NO.48 (2026年4月)
人権と記憶〜ポーランド孤児とカナダと日本
山野内在カナダ大使
日加協会の皆様、日本とカナダの友好関係の発展を応援して頂いている皆様、こんにちは。
はじめに
早いもので、日加協会HPに「オタワ便り」を連載させて頂いて4年が過ぎました。今回が48回です。正に、世に“歳月人を待たず”と言うとおりだと実感します。この関連で、私が愛するローリングストーンズの傑作音盤に『It’s Only Rock’n’Roll』というのがあります。1974年のリリースですから既に半世紀以上も前の録音ですが、「Time Waits for No One」という名曲も収録されています。
その流れでもう1曲、時の流れを歌った名曲をあげれば、ボブ・マーリーの1978年の音盤『Kaya』に「Time will Tell」という歌があります。私事で恐縮ですが、実は、今、春休みを利用して、そのボブ・マーリーの母国ジャマイカに来ています。また、ジャマイカと言えば、在カナダ日本大使館の次席公使として大活躍すると同時に私をガッチリと支えてくれた丸山浩平氏が4か月前に日本大使として着任されたところです。オタワを出発した時の気温が氷点下15℃で、ここキングストンは25℃ですから、寒暖差40度です。世界で最も寒い首都から抜け出し、カリブの春を満喫しつつジャマイカの英雄にしてレゲエ・ミュージックの伝説、ボブ・マーリーのこの曲を聴きながら原稿を書き始めました。
実は、ここまで書きながら、今回の主題はカーニー首相訪日にしよう、と考えていました。実際、この連載に相応しい内容ではあります。しかし、考えてみれば、カーニー首相の訪日はNHKが首相自身へのインタビューを行う等、主要メディアでも大きく報道されました。そうであるならば、せっかくの「オタワ便り」ですから、改めて既に報じられている時事的な事項を詳細に書くよりも、知る人ぞ知る、かつ歴史的にも意義深い逸話を書いて、読者の方々に知ってもらいたいと思うようになりました。
前置きが長くなりました。今回の主題は、ポーランド孤児救済についてです。
ポーランド孤児救済に関する公邸イベント?
何故、「オタワ便り」でポーランド孤児の話なのか? カナダと何の関係があるのか? と訝る読者も少なくないと思います。
何事であれ、如何に唐突に見える物事でも、直接的な経緯の他にも明確な理由と背景、様々な伏線があるものです。今回、私がポーランド孤児の救済に関して書きたいと考えるに至ったのは、幾つかの異なる事柄が重なっています。
直接のきっかけは、私が敬愛する倭島岳彦在カルガリー総領事からの電話でした。2025年7月のことでした。総領事曰く、
「1920年代、シベリアにおいて脆弱な立場に置かれていたポーランド孤児が日本赤十字社の尽力で救済されたという歴史をご存知か。日本に救済されたポーランド孤児の子孫の中には、カナダに居住している人もいる。その1人がポール・ヴォイダク氏で、彼の父親がシベリアのポーランド孤児だった。が、父親は生前は苦難の時代を語ることなく既に他界した。そこで、ヴォダイク氏は、父親の辿った道を知りたいと詳細な調査を始めた。すると、孤児として辛酸を舐め尽くした父親を含む多くのポーランド孤児をシベリアから救ったのが日本の人々だったことが判明した。ヴォイダク氏は、是非、この事を多くの人々に知ってもらいたいと考え、本を自費出版した。自分(倭島総領事)はヴォダイク氏と面談したが、日本への感謝の念は真剣だ。何とかヴォイダク氏の思いに報いたいし、出来るだけ多くのカナダ人に知ってもらいたい。首都オタワで何かイベントを是非お願いしたい。」
倭島在カルガリー総領事とヴォイダク氏
写真提供: 在カルガリー日本総領事館
私は、即座に「了解。公邸で有識者を集めて、人権等の問題について議論するパネル・ディスカッションを検討しよう」と応じました。素晴らしいアイデアと思ったからです。
何処の国であれ、そこに駐在する大使の役目は、日本と当該国との関係の強化です。日本の事をより深く知ってもらうために実に様々な取り組みをしています。パネル・ディスカッションは非常に効果的です。
ここから、約6ヶ月かけて詳細かつ丁寧な準備が大使館・総領事館や各関係者との間で行われることになります。公邸でのイベントについては、後段で書きますが、まず、シベリアのポーランド孤児とその救済に至る経緯を記したいと思います。
シベリアのポーランド孤児の歴史的経緯
正直に言うと、私もシベリアにおけるポーランド孤児の救済については、表面的な事柄しか知りませんでした。改めて、ポーランド建国に遡ってその歴史的経緯を記したいと思います。
〈ポーランドの誕生と発展と分割と滅亡〉
10世紀以前のポーランドは、未だ国家としては成立しておらず、複数のスラブ系部族が分散して暮らしていました。この地域は966年にキリスト教化され、ミェシュコ1世がピャスト朝を開き、ポーランド王国として発展。14世紀前半にはカジミェシュ大王のもとで栄えます。しかし、16世紀後半にヤゲウォ朝が断絶すると、選挙王制のもとで貴族間に紛争が絶えず、18世紀には国力衰えました。
すると、ロシアのエカチェリーナ2世がこれに乗じて内政に干渉し、勢力を西に広げようとします。これに対抗し、プロイセンのフリードリッヒ2世はオーストリアを誘ってロシアにポーランド分割を提案。1772年、3カ国はそれぞれの国境に近いポーランドの領土を奪います。その後、ポーランドの愛国者は奮起するも、ロシア等は更に2回の分割を強行し、1795年、ポーランドは国家として滅亡しました。
〈ロシア帝国の支配と弾圧とシベリア送り〉
ポーランドの人々は祖国回復のために戦い続けます。が、ナポレオン戦争後のウィーン会議では、ロシア皇帝がポーランド国王を兼ねることが決まります。ニコライ1世の時代には、ロシア支配が強化され厳しく弾圧されます。ショパンの「革命」はその頃の作品です。
反ロシア活動に関与したポーランドの人々は流刑者としてシベリア送りになりました。また、辺境開発のために強制的にシベリアへ移住させられたポーランド人も多かったと言われています。孤児の多くは、このようなポーランド人の子孫です。
〈第一次世界大戦とロシア革命〉
第一次世界大戦が始まるとポーランドは戦場となり、ロシアはポーランド住民を強制的に疎開させました。が、1917年にロシア革命が起こり、ポーランドは123年ぶりに主権国家として復活します。しかし、ロシア革命とそれに続く内戦による混乱、更にポーランドとソ連の間の戦争が勃発したために、シベリアに暮らすポーランド人は祖国に帰ることが出来ませんでした。
この時期、シベリアを含めソ連極東地域には十数万人のポーランド人が暮らしていたと推定されています。彼らの生活は飢餓や疫病や極寒の気候によって脅かされていました。特に、孤児は極めて脆弱な立場にいました。
ポーランド孤児を救え
このような状況で、1919年、ウラジオストク在住のポーランド人によって「ポーランド救済委員会」が設立されます。そして、1920年、同委員会のアンナ・ヴィエルケヴィッチ会長が来日を果たします。同会長は外務省を訪れ、窮状に陥っているポーランド孤児の救済を求めました。
外務省は、ポーランド救済委員会からの要請を受けると、日本赤十字社に対して、孤児救済事業を依頼します。日本赤十字社は、極めて迅速に対応します。ポーランド救済委員会に依頼されてから僅か17日後に、孤児救済事業の開始を決定したとされています。
アンナ・ヴィエルケヴィッチ・ポーランド救済委員会会長
写真提供: ポール・ヴォイダク氏提供
日本赤十字社は、1920年から1921年にかけて第1回救済事業を実施しました。205人の少年と170人の少女、合計375人の孤児を海路ウラジオストクから敦賀に移送され、上陸します。その後、敦賀から東京に移動。渋谷区の日赤病院に隣接した仏教系の福田会育児院に落ち着きました。1921年4月には、貞明皇后が行啓し「大事にして健やかに生い立つように」との御言葉をかけられたとの記録が残っています。その後、孤児達は、横浜港から米国経由でポーランドに帰還しました。
更に、日本赤十字社は、1922年に、第2回救済事業を実施。210人の少年、180人の少女、合計390人の孤児達が、ウラジオストクから敦賀に上陸。その後、大阪市立公民病院看護婦寄宿舎にて数ヶ月間過ごしました。そして、神戸港から英国経由でポーランドに帰還しました。
福田会育児院におけるポーランド孤児達
写真提供: ポール・ヴォイダク氏提供
ポーランド孤児達の声
救済された孤児達は、その後、様々な機会にインタビューや回想しています。幾つかの例をあげます。
第2次事業で救済された当時11歳のヘンリク・サドフスキ氏は、「日本では、初めて安心して眠ることができた。私たちは、そこで人間らしい生活を取り戻した」と後に回想しています。
同じく、第2次事業で救済された当時11歳のスタニスワフ・ヤンコフスキ氏は、日本での療養経験について、「日本の看護婦は母親のようだった。言葉は通じなくても、すべて理解できた」と感謝の気持ちを持って発言しています。
第2次事業で救済された女性孤児で当時5歳のジュリア・ピオトロフスカ女史は「白い服の看護婦たちは天使のように見えた。私たちは抱きしめられ、守られていると感じた」と回想しています。
また、具体名は不明ですが、「日本で初めて、お腹いっぱい食べることができました。それまでの飢えがどれほどだったか、そこで初めて分かりました」とか「私たちにとって日本は第二の祖国です。命だけでなく、心も救われました」という感謝の言葉が複数残っています。
「シベリアにおけるポーランド孤児救済に関するプレゼンテーション」
上述のような経緯と準備を経て、2026年2月23日、オタワの日本大使公邸にて「シベリアにおけるポーランド孤児救済に関するプレゼンテーション」を在加ポーランド大使館及びマニトバ州ウィニペグに設立されたカナダ国立人権博物館と共同で開催しました。
大使公邸イベント参加者
(左から山野内駐カナダ大使、ロス加日議連共同副議長、カーン加国立人権博物館長、
ヴォイダク氏、ジエルスギー駐加ポーランド大使、倭島カルガリー総領事)
写真提供: 在カナダ日本大使館
本件が日本ポーランド間の友好親善の重要な礎の一部であることから、ウィトールド・ジエルスキー駐加ポーランド大使に冒頭のスピーチをお願いしました。ジエルスキー大使は、本件孤児救済がポーランド国内では教科書にも掲載されている事に言及しつつ、孤児を救った日本に対する感謝と尊敬の念が世代を超えて継承されている日本への感情である旨強調しました。その上で、現在の厳しい国際情勢の中、人権を守っていく重要性を指摘しました。
次いで、カナダ国立人権博物館のアイシャ・カーン館長にも、共催団体の長として挨拶を頂きました。カナダにおいては、先住民との関係を含め人権尊重が極めて重く受け止められているところですが、人権博物館においても、ポーランド孤児救済の経緯等をしっかり受け止め、適切な形で語り継いでいきたいとの思いを語って頂きました。
そして、クリスタ・ロス上院議員・加日議連共同副議長からは、日本とカナダの間で幅広い協力が深まっている中で、人権分野での取り組みの大切さに言及して頂きました。
更に、ウラジオストクを出航したポーランド孤児が最初に上陸した地である敦賀には、資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」があり、孤児救済の史実を後世に伝えるための展示が行われています。今般のイベントに際し、米澤光治市長より「国内外の幅広い世代へこの物語を語り継ぐことができているには、ヴォイダク様はじめ、孤児ご本人、ご子孫、そして関係者の皆様からの長年にわたる多大なるご支援の賜物でございます。日本とポーランドの絆の物事を、これからも責任をもって語り継いでいく所存です」とのメッセージを頂戴しました。
資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」
写真提供: 敦賀市提供
そして、倭島カルガリー総領事がポール・ヴォイダク氏を紹介。ヴォイダク氏に講演して頂きました。要旨は次のとおりです。
・自分(ポール)はポーランド系カナダ人であるが、父は自身の生涯について語ることがなかった。そこで、父の死後、調査して以下の事が分かった。
・父は1912年に地図に載っていないロシアの街で生まれ、その後、シベリア・極東で育つ中で孤児となった。
・1920〜21年の第1次事業で、日本赤十字社に救われ福田会育児院に滞在。
・米国にわたり、ポーランドに帰還。
・第2次世界大戦の勃発で、ナチス・ドイツの占領下で兵士となり、イタリアで従軍。
・戦後、英国に居住。1948年に自分(ポール)が生まれた。
・その後、カナダに移住。平和な生活でエンジニアとして生涯を全うした。
・父の充実した人生は、日本赤十字社によって救われた故である。この事を人々に知ってもらいたいと切に思い、自費出版した。
ヴォイダク氏の著書
写真提供: 在カナダ日本大使館
幼少期のヴォイダク氏と御両親
写真提供: ポール・ヴォイダク氏提供
パワーポイントを使いつつ、淡々と語るヴォイダク氏の講演内容は参加者の胸を激しく抉りました。オタワのポーランド系とユダヤ系のコミュニティーの代表者の方々にも多数参加頂きましたが、皆涙ぐんでらっしゃいました。
大使公邸イベントにて講演するヴォイダク氏
写真提供: 在カナダ日本大使館
イベントの締め括りは、オタワ有数の芸術高校ドゥ・ラ・サルの音楽科生徒による2梃のヴィオリンによるショパン「別れの曲」の素晴らしい演奏でした。ポーランドと言えばショパンです。高校にお願いしましたら、是非にと快諾頂きましたが、それ以上に生徒さんが演奏だけでなく、講演に真剣に向き合ってくれました。このような人権問題を次の世代に伝える観点からも極めて意義深いと思います。
大使公邸イベントにて演奏するドゥ・ラ・サル高校の生徒
写真提供: 在カナダ日本大使館
結語
100年以上前に起こったシベリア・極東・日本での出来事は、実は、今日の人権問題と無縁ではありません。日本とカナダの協力の深化の観点からも非常に大切です。多くの参加者から、「今まで全く知らぬ話だった」或いは「心に沁みる内容だった」等々の高い評価を得ました。
是非とも語り継がれるべきものと思い、皆様と共有させて頂きました。
(了)
文中のリンクは日加協会においてはったものです。