Column: 総領事通信 第1回 トロント総領事 松永健 (2026年10月)
総領事通信 第1回
トロント総領事 松永健
「在カナダ大使館・総領事館からの新規定期報告について」
平素より日加協会活動にご支援ご鞭撻を賜り、たいへんありがとうございます。
日加協会ではカナダの現状を会員の皆様にお伝えすべく、在カナダ山野内前大使からの月例カナダ事情報告「オタワ便り」をお送りしてまいりました。
この度、中込(なかごめ)新大使からの「オタワ便り」に加えて、広いカナダ各地の生の声をお届けすべく、新たに各地の日本総領事からの「総領事便り」を配信することといたしました。トロント、カルガリ、ヴァンクーバー、モントリオールの各総領事からの「総領事便り」を持ち回りでお送りする予定です。
地元に勤務する現役総領事の目で見たカナダ各地の実情が皆様の参考になれば幸いです。
今後、毎月初めには「オタワ便り」を、10日頃には「総領事便り」を配信する予定です。
どうぞ引き続き日加協会をよろしくお願いいたします。
2026年10月吉日
日加協会会長 石川薫
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総領事通信 第1回 トロント総領事 松永健
松永健 トロント総領事
日加協会の皆様、そして同協会のウェブサイトをご覧の皆様、今回、「総領事通信」をトロントよりお届けする機会を頂いたことに感謝します。私がトロントにやって来たのは2024年1月でした。その後今日まで、3年近くにわたり、日本とカナダを繋ぐ素晴らしい人達に会うことができました。今回は、そうした人達の一人であり、和紙の普及を通じて日加友好の増進に大きく貢献し、令和8年春の外国人叙勲の栄誉を受けられたナンシー・ジャコビさんの足跡について、皆様にご紹介させて頂きたいと思います。
JPPのHPより
ナンシー・ジャコビさんは、和紙の魅力を、カナダをはじめとする国々で広めた人物です。和紙は、1400年の歴史を持ち、日本文化に深く根ざした伝統素材ですが、ジャコビさんは、その国際的な供給網の発展と、カナダをはじめとする世界の人々への魅力発信に多大な貢献をされました。和紙は現在、2014年にユネスコの無形文化遺産に登録されるなど、近年でこそ、国際的に広く認知されるようになってきていますが、ジャコビさんが初めて日本に滞在していた1975年、状況は今日とは大きく異なっていました。その頃、カナダを含め、和紙に対する国際的な理解や、入手経路は限られていたのです。当時、ジャコビさんは、英語教師として日本に滞在していたのですが、その時に、和紙の持つ魔法のような魅力に気付いたのでした。
1975年ジャコビさんは英語教師として日本に滞在していました
JPPのHPより
日本滞在中に和紙の独自の歴史や製法、芸術性に魅了されたジャコビさんは、日本からカナダへ戻った後、文字通り行商という形で、和紙の販売を始めたのだそうです。その後、1982年にザ・ジャパニーズ・ペーパー・プレイス(JPP)を設立し、和紙を専門に扱う本格的な卸売・小売事業を展開するようになりました。ジャコビさんの凄いところは、多くの日本人すら気にとめることの少ない、あるいは忘れかけてしまっているかもしれない、和紙の潜在力を見抜いたことです。ご自身のことばを借りれば、ジャコビさんは、「和紙は単に印刷や描画を行うための平面的な素材以上の存在である」ことに気付いたのでした。「しなやかで、半透明で、吸水性に富み、柔らかい――。それでありながら驚くほど強靭な「和紙」と呼ばれるこの紙は、布地が持つ官能的な質感と、古来の良質な紙が備える実用的かつ優美な気品を兼ね備えている」「単に「紙」と呼ぶだけでは、アーティストの手によって引き出されるその驚くべき可能性を見落としてしまうことになる」とジャコビさんは過去のインタビューのなかで指摘しています。
ジャコビさんがトロントで初めて開いた和紙の小売店
JPPのHPより
ジャコビさんの活動は、和紙を商材として扱うだけに止まりませんでした。彼女は商業的な事業の枠を超えて、講演会やワークショップを通じて和紙の魅力を積極的に発信し続けました。特筆すべきは、2008年に国際交流基金トロント日本文化センターと共同でトロントにて開催した「世界和紙サミット」です。実行委員長を務めた彼女は、数週間にわたるプログラムを統括しました。このサミットのプログラムには、日本から招いた紙漉き職人による実演に加え、35のギャラリーで計125名のアーティストの作品を展示する展覧会や講演会などが盛り込まれました。このイベントは、カナダ国内外の参加者の間で和紙に対する認知と理解を深める大きな一歩となりました。また、和紙が単なる一般的な用途にとどまらず、芸術制作から歴史的文書や文化財の修復に至るまで多岐にわたる用途を持つ素材であるという認識を広め、芸術や工芸の分野における和紙の活用を促進するきっかけともなりました。
カナダ唯一の本格的な和紙卸売業者であるザ・ジャパニーズ・ペーパー・プレイスを創業して以来、ジャコビさんは40年以上にわたり、ご自身の施設で定期的に無料の講演会を開催してきました。そこで製造工程や和紙を使った工芸品などのトピックを取り上げ、カナダの芸術家や一般の人々に和紙の魅力を伝え続けてきました。彼女は、オンタリオ州の美術館での和紙アート展の企画・開催、日本からの紙漉き職人の招聘、あらゆる年齢層を対象とした無料の折り紙ワークショップの実施などの活動も、精力的に行ってきました。また、こうした活動に加え、ジャコビ氏は、製本や工芸に関する専門誌への寄稿やカナダの主要紙でのインタビュー・記事掲載といった出版活動や、フランス、イギリス、南アフリカ、キューバなど世界各国での講演を通じて、和紙の普及に努めてきました。
ザ・ジャパニーズ・ペーパー・プレイスは、土佐和紙、越前和紙、美濃和紙などの産地と直接取引関係を築き、手漉き技術や、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)といった天然の原材料への理解を深めてきました。伝統的な和紙の特性を深く理解し、「ヘリテージ・ワシ(Heritage Washi)」という親しみやすい名称で製品を紹介することで、製本家、印刷業者、画材店、美術館、修復工房など、顧客層を拡大することにも成功しました。 さらに、欧米で人気の高い千代紙の柄を取り入れた品揃えの拡充や、海上・鉄道輸送といった費用対効果の高い輸送網の活用など、戦略的な取り組みを展開。カナダ国内にとどまらず国際市場へと販路を広げ、和紙を専門とするグローバルな卸売業者へと成長を遂げました。カナダの芸術家や一般の人々が今や比較的容易に和紙を入手できるようになっているのは、ジャコビさんの情熱と創意工夫、そして献身的な努力の賜物に他なりません。
現代の日本において、伝統工芸である和紙は、需要の減少や後継者不足により衰退の危機に瀕しており、その存続さえも危ぶまれています。紙漉きの職人が失われつつあり、またそれ以上に、「簀(す)」「桁(けた)」といった紙漉きの道具を作る職人が極端に減少しているのです。その一方で、海外市場では、伝統工芸品としての価値や持続可能な素材としての特性が高く評価され、アート、ファッション、インテリアデザインといった分野で需要が拡大しています。特に著名な芸術家の作品作りに重宝されています。和紙の魅力を紹介する個人の尽力が、国際的な需要の拡大と供給体制の拡充の両面に寄与し、ひいては日本の貴重な和紙産業の保存と存続を間接的に支えることにもつながることが期待されるところです。そして、まさにそれこそが、ザ・ジャパニーズ・ペーパー・プレイスがこれまで行ってきたとともに、今もなお続けている活動です。
本年10月2日、ザ・ジャパニーズ・ペーパー・プレイスは、高知県の著名な和紙職人一家である尾﨑製紙所の片岡(旧姓尾﨑)あかりさん、片岡久直さんご夫妻を招いて、トロントでイベントを実施しました。このイベントには、我が在トロント日本国総領事館も全面的に協力しました。会場であかりさんにお伺いしたところ、ザ・ジャパニーズ・ペーパー・プレイスが初めて尾﨑家をカナダに招聘したのは2003年のことで、23年前の当時、あかりさんは紙漉きの家業を継ぐことについて迷いを捨てきれないでいたのだそうです。しかし、いずれも和紙職人であった祖父や母と一緒にカナダを旅する中で、彼女は初めて、祖父や母が作る紙が遠く離れた地まで届き、カナダの芸術家たちに熱烈に受け入れられている様子を目の当たりにしました。この経験は後に、家業の伝統を受け継ぎ、自らも和紙職人になるというあかりさんの決意を後押ししたとのことで、あかりさんは私に「ジャコビさんに感謝しています」と仰いました。そしてイベントの聴衆に対し、「私が紙作りをこれまでしてこれたのはカナダのおかげです」と伝え喝采を浴びました。
現在、片岡あかりさん・久直さんご夫妻は、尾﨑製紙所の4代目。土佐清帳箋(清張紙)の技法を継承する唯一の存在です。書家、版画家、工芸作家らに高く評価される土佐清帳箋は、「千年長持ちする紙」「かつて大福帳などに用いられ、火災の際、井戸の水中に投じておいて、数日後に取り出しても墨書きの字が消えず、明瞭に読み取れるほど丈夫」と言われ、国の無形文化財にも指定されています。今回のイベントでは、あかりさん・久直さんご夫妻からの和紙作りについての丁寧な説明に続いて、参加したカナダの芸術家等から次々に、尾﨑製紙所の和紙への熱い愛情が表明されていました。例えば、著名な切り絵アーティストであるバーバラ・クランダーさんは、ジャコビさんに勧められて初めて使った時の感動について、「切りやすくて、強靱。しかも、濡らすと繫がる。「この紙は生きている」と思った」と語っていました。
10月2日のJSS主催イベントでの片岡あかり・久直ご夫妻
50年以上前、英語教師として日本に滞在中、和紙の中に特別な何かを見出し、その真の価値と無限の可能性をいち早く見抜いたジャコビさん。それ以来、彼女は「和紙の魔法」を分かち合うことに人生を捧げ、トロントやオンタリオ州、さらにはカナダの国境をも越えて広がる情熱の輪を広げてきました。今日、カナダには、ジャコビさんが築き上げた和紙愛好者のコミュニティーが息づいています。それは、版画家、切り絵作家、紙彫刻家を含む多様なアーティスト、職人、製本家、修復家、卸売業者や小売業者、そして一般の和紙愛好家達のコミュニティーであり、彼らは和紙への共通の愛で結びついています。ジャコビさんの長年にわたる献身的な活動は、何千人もの人々に、和紙の持つ気品ある魅力を体験させ、数え切れないほど多くの人々の心を、日本文化へのより深い理解へと導いてきました。
今年4月、ジャコビさんは、その日本文化の振興への多大な貢献が称えられ、旭日双光章を授与されました。つい先日、この栄誉に浴されたジャコビさんに心からお祝いを申し上げ、ご家族、ご同僚、ご友人の皆様と共にその慶びを分かち合う機会がありました。今回のジャコビさんへの叙勲は、彼女の素晴らしい功績を称えるものであると同時に、彼女が今日まで、そして未来の世代のために育んできた、「和紙の世界」という今なお息づく遺産への深い敬意を表するものでもあります。この栄誉が、ジャコビさんの貴重な活動を続けるためのさらなる糧となり、また、彼女の姿によって後に続く世代が勇気づけられることを願っています。
総領事公邸で行われた叙勲伝達式でのナンシー・ジャコビ氏
以上
文中のリンクは日加協会においてはったものです。