Column: オタワ便り NO.43 (2025年11月)
日加スポーツ交流〜今日まで、そして明日から
山野内在カナダ大使
日加協会の皆様、日加関係を応援頂いている皆様、こんにちは。
はじめに
オタワもいよいよ冬到来です。10月最終週には、毎朝のウォーキングに出る時に気温が氷点下で最高気温も10℃に満たない日が続いています。
一方、この原稿を書いているのは、メジャーリーグ野球(MLB)のワールド・シリーズ真最中です。実は、MLB30球団の中で唯一のカナダ・球団がトロント・ブルージェイズ。1992年と1993年の2年連続でワールド・チャンピオンになって以来、32年ぶりのワールド・シリーズ進出。カナダ国内は大いに盛り上がっています。対するロサンゼルス・ドジャーズは、二刀流の大谷翔平選手や沢村賞3年連続受賞の山本由伸投手を擁し話題を集めています。とても誇らしく思います。
勿論、ブルージェイズにもこれまで8人の日本人選手が所属しています。最初は、マイケル中村、大家友和、五十嵐亮太、川崎宗則、青木宣親、山口俊、加藤豪将、そして菊池雄星です(敬称略)。また、現役で活躍中のイザイア・カイナー=ファレファ選手は祖母が広島出身の日系人です。
と云う訳で、今回の「オタワ便り」は日本とカナダのスポーツ交流です。その創世記、苦難の時期、戦後の発展、今日の隆盛、そして今後の展望について記します。
創世記
日加スポーツ交流の源流を辿りましょう。
そもそもカナダは、1867年に大英帝国自治領ドミニオン・オブ・カナダとして発足した若い国です。自治領カナダ建国とは言え外交権はありません。 カナダとの関係は、日英関係の一環として全てロンドン経由で行われていました。
一方、日加間では勿論、直接の交流も進みます。最初のカナダ人宣教師の訪日は1872年。最初の日本人移民と言われている永野万蔵がブリティッシュ・コロンビア(BC)州に来たのが1877年。横浜=バンクーバー間に太平洋航路が開設されたのが1887年。その2年後には在バンクーバー日本国総領事館が開設されました。
『永野万蔵氏』
写真出典: 在バンクーバー日本国総領事館
日本とカナダの関係は、貿易と人的交流を軸に急速に深まり始めます。カナダから日本への主要輸出品は木材・石炭・小麦・海産物。1900年から1910年の間に、輸出量が10倍になるほどです。 カナダへの日本人移民が流入 し、カナダからはプロテスタント系宣教師が日本に赴任し教育の近代化に貢献しました。
この間、横浜に寄港した船舶の乗組員が港湾でクリケットやラグビー、ボートやヨットに興じていたようです。日本人移民は、漁業に従事したり製材所で働きつつ、休日には、柔道や相撲や綱引き中心とした運動会、或いは野球に興じていたと云います。また、日本のプロテスタント系学校で体育の一環として陸上競技が行われたようです。
興味深いのは野球です。野球の起源には諸説ありますが、現在の野球に直接繋がっているのは米国です。1791年にマサチューセッツ州ピッツフィールドに伝わる古文書にbaseballと記述されているそうです。勿論、ベースボールは隣国カナダにも伝わります。未だ大英帝国植民地だった1838年、オンタリオ州ビーチビルでと当時“タウンボール”と呼ばれていた試合が行われていて、それがカナダ最初の野球と言われています。一方、日本では、米国人教師ホーレス・ウィルソンが東京開成学校で教えて始めました。1871年のことです。やがて、Baseballは正岡子規が“のぼーる”と呼び、中馬庚が“野球”と訳し、日本に普及していく訳です。野球は、カナダと日本の双方でそれぞれに発展していきます。
野球〜日加スポーツ交流の原点
記録に残る最初の日加スポーツ交流と言えるのは、1905年の早稲田大学野球部の北米遠征です。日本のスポーツチームによる最初の海外遠征でもあります。3月10日、横浜港をカナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・チャイナ号で出航。3月22日にバンクーバーに到着。その後は、3月27日にシアトル、更にサンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルを訪問し、5月末に帰国しています。因みに、この時期は日露戦争の最終局面で、奉天会戦が3月1日〜10日、日本海海戦が5月27日〜28日でした。明治政府が総力を賭けた戦争を遂行中に、日本初のスポーツ海外遠征が敢行されたというのは非常に示唆に富みます。
『第1回米国遠征時の早稲田大学野球部』
さて、早稲田大学野球部がバンクーバーに滞在中の3月24日、地元選抜チーム及び日系移民チームとの親善試合が行われました。当時の日系移民コミュニティーは4000人程。 日系移民は「バンクーバー・ニッポン」と称する球団をつくっていました。日系移民にとって初の祖国チームとの対戦となりました。詳細は不明ながら、1勝1敗だったと地元のバンクーバー・デイリー・プロヴィンス紙が報じています。
これを契機として、バンクーバー市内に日系移民の野球チームがいくつも生まれます。「ミカド」、「敷島」、「ヤマト」「フジ」といった球団名が残っています。州都ヴィクトリアにも「ニッポン」と称するチームが誕生します。
一方、当時の日系移民を巡る情勢には複雑なものがありました。
バンクーバー暴動
早稲田大学野球部の来訪から2年余を経た1907年9月7日、アジアからの移民排斥を訴えるバンクーバー暴動が発生しました。アジアからの移民を制限する法案をBC州と連邦政府に求める集会が暴徒化したものです。その背景には、日露戦争の勝利で日本が太平洋における強力な国家として浮かび上がり、日本からの移民が「白人」労働者の仕事を奪いかねない存在と見られていました。一方、連邦政府は移民制限には慎重でした。カナダの宗主国である英国と日本は日英同盟を結んでいたことと、カナダの輸出先としての日本市場の重要性を認識していたからです。しかし、日頃は平和なカナダ社会での暴動の発生で状況が大きく変わりました。日加間で交渉が重ねられ、翌1908年には日本からの移民数を制限するルミュー協定が結ばれました。
『1907年のバンクーバーにおける暴動で被害を受けた日系商店』
それでもカナダ社会の中で、日系移民は存在感を増していきます。特に、パウエル街地区は非常に活気がありました。但し、その活気は、社会的地位は低い中で人種差別と低賃金労働に耐えてと懸命に働く日系移民の気概に支えられていたのです。
バンクーバー朝日
再び野球です。野球熱が高まる中、人種差別に負けず、「日本人の誇りを白人に見せつけたい」という思いが高まります。そして、1914年、日系移民最強のチームをつくるべく“バンクーバー朝日”が誕生します。既存の各チームから引き抜かれた主力選手と「英語は話せないけれど、野球なら出来る」という15歳前後の有望な若手で発足します。率いたのは、“馬車松”と渾名された熱血漢で初代監督の宮崎松二郎。そして、ミッキー、ヨー、エディーの北川3兄弟が中核を担いました。
体格とパワーでは白人チームに劣っていましたが、“スモール・べースボール”と揶揄されながらも技術と頭脳を駆使し、攻撃ではバント・盗塁・ヒットエンドランの機動力で得点。堅実な守備と連携プレーで失点を防ぎました。また、自らはラフプレーを禁じ、白人チームがラフプレーを仕掛けても抗議せず、 フェアプレーに徹したと云います。やがて、日系人の観客だけでなく、白人からも応援される存在になっていきます。
1921年には訪日し旧制和歌山県立和歌山中学校(現“桐蔭”)と対戦し、北海道まで転戦し“ブレイン・ベースボール”の真髄を学んでバンクーバーに帰還。1926年には、BC州最高峰のターミナル・リーグで初優勝を飾りました。1935年には、創設されたばかりの大日本東京野球倶楽部(現在の讀賣ジャイアンツ)の北米遠征の際に、バンクーバー朝日とも対戦しています。
『バンクーバー朝日』
柔道
一方、柔道です。日加間で記録に残る最初期のスポーツ交流は、野球に次いで柔道です。カナダ柔道連盟の公式年表には、具体的な柔道家の名は記されていないものの、1907年に日本人移民によって柔道がカナダに紹介されたと記載されています。
カナダにおける柔道の発展には目を見張るものがあります。詳細は 「オタワ便り」第23回(2024年3月)に譲りますが、1922年には、鳥取出身の佐々木繁孝がバンクーバーに移住し、24年にパウエル通りにバンクーバー・ジュードー・クラブ「体育道場」を開設しました。
『佐々木繁孝氏』
1932年には、柔道がボクシングやレスリングに代わってRCMPの正式な訓練科目となっていきます。1907年の反アジア暴動から25年を経て、日系人が伝えた日本発の柔道がカナダ社会の主流へ進出したことは非常に意義深いと思います。また、この年、ロサンゼルス五輪の帰途、嘉納治五郎がバンクーバーに立ち寄り、更に発展していきます。
ラグビー
実は、日加スポーツ交流において、ラグビーも非常に印象的です。何故なら、日本代表の歴史は、1930年のカナダ遠征に始まるからです。初めての海外遠征でバンクーバーに来た日本ラグビーは、未だ発展途上でした。英国の伝統の強いカナダですから、日本代表の相手は、カナダ代表ではなくBC州代表だった訳です。それでも、7戦して6勝1分けで「ジャパン」の存在を示したそうです。この時期の日本はと言えば、1928年のいわゆる満州某重大事件以降、柳条湖事件から満州事変が没発し1933年の国際連盟脱退に至る状況です。実は、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁するNYヤンキースの日本訪問が1934年です。それに先立つ日加ラグビー交流は、国際社会で孤立化しつつあった日本におけるスポーツ交流の意義を今日に伝えています。
と言いますのも、この遠征には印象深い逸話があるのです。詳しくは、「オタワ便り」第29回(2024年9月)に記していますが、第6戦の日本代表vsBC州代表の試合。開始早々日本選手が負傷し退場。当時のルールでは、試合途中の選手交代が出来なかったので、日本代表は14人で試合を続行しようとします。すると、BC州代表の監督は、いわばローカル・ルールで日本側に交代選手を出すよう求めます。が、国際ルールを遵守すべく、日本代表監督はその申し入れを固辞します。すると、カナダ側は1人休ませて14人で戦おうとしました。フェアプレーの精神です。これに日本の監督が感動し、補充の選手を出場させて、両チームとも15人で試合し、結果引き分けだったのです。この逸話は、勝敗を超えたスポーツマンシップを後世に伝えています。
『1930年カナダ遠征時のラグビー日本代表メンバー』
1964年の東京オリンピック
上述のとおり、野球や柔道、更にはラグビー等が日加スポーツ交流を深化させました。しかし、日本とカナダが敵として戦った太平洋戦争が全てを飲み込みました。日系カナダ人は強制収容され財産も没収。スポーツ界も暗黒の時代に突入。スポーツ選手も収容され、活動の機会が奪われました。
戦後、日系カナダ人の運動選手達は、スポーツを通じてカナダ社会に復帰して行きました。 特に、柔道・野球・スケート等では日系人選手が活躍しました。
そして、1964年10月、アジア初となる東京オリンピックが開催されました。カナダは、14競技115名の選手団で参加。銀メダル1個と銅メダル2個を獲得しました。特に、東京大会で初めてオリンピック種目となった柔道の重量級ダグ・ロジャース選手が注目を集めました。15歳でモントリオールのYMCAで柔道を始め、講道館にも留学。23歳で東京オリンピックに出場し、重量級で猪熊功選手と決勝を戦い、惜しくも判定で負けました。ロジャース選手の姿勢は、武道館を埋めた観客の大喝采を浴びました。讀賣新聞は「柔道の母国・日本に学び、その精神を体現してみせたカナダのロジャース。異国の青年ながら、正々堂々の闘志は日本人の心を打った(1964年10月24日夕刊)」と評しました。
『1964年東京五輪の際のダグ・ロジャース選手(一番左)』
21世紀の日加スポーツ交流
最近のスポーツ交流の振興は鮮やかです。
例えば、ラグビーは、日加共にワールドカップの常連で、頻繁に日加代表間のテスト・マッチが行われています。2019年のラグビー・ワールドカップ日本大会は忘れ難いです。台風19号が日本列島を襲い大きな被害を出しました。10月13日に予定されていたカナダ対ナミビア戦も急遽中止されました。その時、釜石に滞在中だったカナダ代表は、清掃・復旧ボランティアを買って出たのです。カナダは真の友だ、として日本国民の感動を呼びました。
また、北米を統合するメジャーリーグ・サッカー所属のバンクーバー・ホワイトキャップスFCには、2023年から高丘陽平選手が主力GPとしてプレーしています。横浜F・マリノスで2022年にJ1リーグ優勝しベスト11にも選ばれた選手です。バンクーバーでは無失点試合記録を更新し注目されています。
更に、カナダが得意とする冬季スポーツについての交流の深化も著しいです。札幌、カルガリー、長野、バンクーバーと両国は冬季オリンピックを2度ずつ開催しています。特に、アイスホッケーでは日本の大学・社会人チームがカナダ遠征を行っています。フィギュアスケートではカナダ人コーチが招聘され、日本人選手を指導しています。ソチと平昌の冬季オリンピック2連勝の羽生結弦選手はトロントを拠点とし、「僕にとっての“第二のホーム”。静かに集中できる場所」と語っています。また、カナダの五輪代表キーガン・メッシングは最初の日本人移民、永野万蔵の玄孫に当たります。万蔵の故郷長崎県島原を訪れた事はNHKでも報道されていました。
『キーガン・メッシング選手』
写真出典: 日加トゥデイ
そして、カーリングです。発祥の地はスコットランドですが、国民的スポーツとしてカナダで発展しました。1950年以降、在日カナダ人コミュニティーを通じて、カーリングが日本に伝わりました。1980年代に、長野県軽井沢や北海道常呂町が拠点となって発展。「氷上のチェス」と呼ばれ、戦略的思考とチームワークが肝要なスポーツは、1998年の長野オリンピックで初めて正式種目となりました。リジャイナ、カルガリー、ウィニペグは日本代表やジュニア選手の遠征先として定着すると同時に、マイク・ハリスらカナダ人コーチが日本代表を鍛えました。北海道常呂町出身の「ロコ・ソラーレ」が2018年の平昌五輪で銅、2022年の北京五輪で銀メダルを取ったのは記憶に新しいです。 新しい時代の日加スポーツ交流の象徴と言えるでしょう。
結語〜今日まで、そして明日から
日加スポーツ交流は、日加関係を映す鏡のようです。1967年のドミニオン・オブ・カナダ成立以降、暗い時代を克服し、二国間関係の進展と歩調を合わせて大きく発展して来ました。今日までの進展には心を打つものがあります。
そして明日からのスポーツ交流を考える時、大きな可能性と潜在力を秘めているのがJETプログラムのスポーツ国際交流員(SEA)の活用です。特定競技の専門家として地方公共団体に配属され、学校の生徒や地域の優秀な選手に対するスポーツ指導の補助、スポーツ事業の企画・立案支援、国際交流活動に従事します。
JETと言えば、生きた英語教育に大きな比重がありますが、今後はスポーツ交流も重視されると伺っています。本年8月には、ハリファックスでカナダJET総会が開催され、東京からも関係者が来訪し、活発な意見交換が行われました。スポーツ交流強化についても議論されました。これまでもJETのSEAが北海道や長野でカーリング指導した例があります。
日加スポーツ交流の一層の深化と進化を願ってやみません。
(了)
文中のリンクは日加協会においてはったものです。